shutterstock
新型コロナウイルスの感染拡大がとまらないなか、感染予防対策への反発が生まれています。「コロナはただの風邪」「マスクをはずして生活しよう」と主張するグループが、渋谷の駅頭で集会を行ったりしています。
感染爆発という事態が、日常生活の行動変容を要請しているなかで、ノーマスクデモは大きく拡大していくだろうと予想されます。今回はこのノーマスクデモについて考えます。
ノーマスクデモは、客観的に見れば、非科学的で、不合理で、事態の解決を遅らせる異常な行動です。では、客観的にみて異常な行動をとる人びとは、どのような生活世界を生きているのでしょうか。
それを考える上で重要なのが、社会学者ピエール・ブルデューが、アルジェリアでの社会調査の結果をまとめた『資本主義のハビトゥス』(原山哲訳、藤原書店)です。本書で、客観的に不合理に見える行為であっても、その行為者にとっては合理性をもった行動である、人間は完全に不合理な行動をとることはない、とブルデューは言うのです。
ブルデューの社会学は、不合理にみえる行動をとる人びとをただ断罪するのではなく、その行動のなかにどのような合理性が含まれているのかを考えるのです。
感染予防対策のために手洗い・消毒を励行するということには、大きな反発はうまれていません。人びとの反発を招いているのは、
外出や会食の制限です。不要不急の外出・会食は控えましょうと呼びかけられる。
象徴的な事例としてあげられたのが、東京・新宿の飲食店街のありようでした。客観的に見れば、未知のウイルスが市中感染を引き起こしている渦中で飲み歩くなど、まったくどうかしている、という話です。そんな遊びは不要だし不急であろうと考えられるのです。
しかし、飲み歩いている当事者にとっては、外で飲み歩く行為は不要でも不急でもなかったのです。少なくとも、政策決定者が考えるほど不要不急ではなかった。
「夜の街」は、都市生活にとって欠かすことのできない重要な器官になっていたのです。
わたしについていえば、外出を控えて自宅に引きこもる生活は苦もないことです。もともと放射能汚染の問題を警戒して外食は控えてきましたし、50歳の身体で「夜の街」に出るのもだんだん億劫になってきています。わたしにとって、「夜の街」での会食は、不要不急です。
しかし世の中、そういうおっさんばかりではないのです。若者にとって、「夜の街」の制限は大問題です。たとえば20代後半ぐらいの、
結婚を意識するようになった未婚の男女にとっては、不特定多数の人びとと出会う飲み会など、大変重要でしょう。コロナウイルスが収束するまで飲み会を我慢してくれと言っても、聞かないでしょう。感染が収束するころには30歳を越えていたなんてことになりかねません。これは当事者にとっては死活問題です。
若者に限定しなくても、
「夜の街」を不可欠とする人々はいます。家族がいないとか、家族はあるが不仲であるとかいった事情があって、行きつけのバーに指定席をもっている人がいます。
都市生活者というのは定型的な家族構成ではない人びとを多く含んでいて、そうした人たちにとって、「夜の街」は単なる遊び場ではなく、暮らしそのものなのです。