伝統的な価値観と対峙するチベット人女性を描く。ペマ・ツェテン監督『羊飼いと風船』

妊娠をめぐって揺れるチベット人女性

©2019 Factory Gate Films. All Rights Reserved.

©2019 Factory Gate Films. All Rights Reserved.

 伝統的な価値観と現実との間で揺れ動くチベット人女性を描いた『羊飼いと風船』がシネスイッチ銀座他全国の劇場で公開されている。  神秘の地・チベットの大草原。牧畜をしながら暮らす、祖父・若夫婦・3人の息子の三世代の家族。その若夫婦の妻、ドルカル(ソナム・ワンモ)は子どもを3人産み、家事に子育てに忙しい日々を過ごしていた。  そんなある日、ドルカルは診療所を訪れる。男性医師に「女性の先生はいないか」と声を掛けるドルカル。女性医師が現れると避妊手術を申し入れるドルカル。医師が渡したコンドームをもう使ってしまったのかと聞くと「子どもたちが最後の2個を風船にしちゃって…」と恥ずかしそうに伝え、笑い合うふたり。来月に手術をすることを決め、医師はドルカルに1つコンドームを渡す。  ある夜、夫のタルギェ(ジンバ)はコンドームを探すが見つからず、そのまま欲望を抑えきれずにドルカルに迫る。子どもたちはコンドームを風船と勘違いし、寝室で見つけた最後のコンドームを友達の持っている笛と交換してしまったのだった。  後日、診療所で検査をすると、妊娠の判定が。まだ一人っ子政策が実施されていたため、女性医師からは「堕ろしなさい。また産んだら罰金よ」という言葉も同時に告げられる。家族の歓喜と堕胎を悪とする伝統的な価値観、そして良好とは言えない経済状態の中で悩み続けるドルカル。彼女が最後に下した決断とは――。  ヴェネチア国際映画祭をはじめとした海外の映画祭で数々の賞を受賞し、東京フィルメックスでは最優秀作品賞に選ばれた本作。映画界の巨匠アッバス・キアロスタミ監督、ウォン・カーウァイ監督も賛辞を送り、各映画祭ではチベットの自然の美しさを背景にきめ細やかな心情を描いた秀作と話題になった。  今回は、日本公開にあたり、本作の脚本・監督を担当したぺマ・ツェテンさんに製作のきっかけ、作品に込めたメッセージなどについて話を聞いた。

伝統的な価値観と現実の間で

 羊の群れの中をバイクに乗ったタルギェが登場するところから物語は始まる。購入から5年以上が経ち、バイクの調子が悪いとこぼすタルギェに対し、タルギェの父は「馬の方が便利だった」と呟く。  そして、「みんな馬とバイクを交換してしまった」と返すタルギェ。古いものが新しいものに取って代わられることを象徴するシーンであるが、人の生き方も同様に新しいものになりつつあった。その間で苦しむのが主人公、ドルカルだ。
pema

Photo by Gao Yuan

 ペマ監督は風に浮かんだ風船を見た時に「魂と現実の関係性」を探求してみたいと思ったという。この物語では、周囲の人々が輪廻転生を信じ、ドルカルの妊娠した子どもが少し前に亡くなったタルギェの父親なのではないかと考える様子も描かれる。  「魂が現実と衝突した」というのは、「伝統的な価値観(中絶を良くないとする思想)=魂」と「女性が出産育児等の大部分を負うことや経済的な事情=現実」と取れるが、ペマ監督はどのようにしてこの物語を着想したのだろうか。  この点について聞くと「空に浮かぶ赤い風船を撮りたい」と思ったことが出発点で、伝統的な価値観と女性たちが直面している現実という対立構造は最初から浮かんだものではなかったと回答があった。  最初に「赤い風船」の絵が浮かんで、それをチベットで撮るとどのようになるのかというところから発想して「魂と現実」が摩擦を起こす物語を構築したとのことだった。  伝統的な価値観に悩まされながらも、それを全く否定することはできないドルカル。60代と思しきタルギェの父親は若い頃に中国全土を吹き荒れた文化大革命を経験した世代であり、宗教弾圧が行われた厳しい世代を生き抜いてきたからこそ、伝統的な文化を重んじている。  一方で、タルギェとドルカルは30代後半という設定だが、牧畜文化は残りつつも市場経済や電気、ラジオ、テレビ、バイクなど新しい文化が急激に流入してきた世代だ。嫁であり妻であり、そして母であるドルカルは伝統的な価値観と現実の間で悩む。
©2019 Factory Gate Films. All Rights Reserved.

©2019 Factory Gate Films. All Rights Reserved.

 ペマ監督にとって「伝統的な価値観と新しい習慣との軋轢の中における彼女たちの困難を想像するのは難しくない作業」だったとのことだが、モデルになった女性はいたのだろうか。  それについては「特定のモデルはいないが、母親、姉、妹を含めたこれまでチベットで見聞きした女性たちを総合した女性がドルカル」との回答があった。ドルカルを通してチベット族の女性が直面している問題を描いたという。  ちなみに、ペマ監督の母親が子どもを産んだ60年代は一人っ子政策が行われておらず「産むか産まないか」の二者択一の問題はなかったとのこと。この物語は90年代から00年代にかけての設定であり、一人っ子政策が行われていた時期だからこそ成立する物語にしたのだそうだ。
次のページ
本当のチベット人の姿を
1
2
3
PC_middleRec_left
PC_middleRec_right
関連記事
PC_fotterRec_left
PC_foterRec_right