ワクチンの知財保護で世界は分断されてしまうのか? 議論呼ぶ「ワクチン・ナショナリズム」

「知財保護」の壁を突き崩した事例

 例えば、1990年代後半にアフリカを中心にHIV/エイズが蔓延した際、治療に有効な3種混合ワクチンが開発されたのだが、それを手にできたのは先進国の患者と途上国の一部の富裕層だけだった。製薬企業の持つ特許によって、年間100万円以上の薬価がつけられたためである。1日1ドル以下で暮らす最貧困層の人々が、このような高価格の薬を入手できるはずはない。多くの途上国で、何千、何万という規模の人々が「ただ貧しいから」という理由で医薬品を手にすることなく命を落としていった。  こうした深刻な事態に、HIV/エイズの患者や支援団体、医療団体、そして途上国政府、国際市民社会は問題提起をした。公衆衛生の危機に直面した際、特許を無効化して国内で安価なジェネリック医薬品を製造できるよう、TRIPS協定に柔軟性を持たせることを強く訴えたのだ。国際世論も盛り上がり、最終的にこの提案にWTO加盟国は合意し、2001年の「知的所有権の貿易関連の側面に関する協定及び公衆の健康に関する宣言」(ドーハ宣言)によってTRIPS協定が改定されるに至った。途上国側には、緊急事態の際に「強制実施権」が担保され、実際にこれを利用して安価なジェネリック薬を国内に普及できた国々も多くあった。製薬企業の利潤追求の流れを、途上国の人々の医薬品アクセスの側に押し戻した画期的な出来事だった。  しかし、医薬品特許をめぐる途上国と先進国の対立は終わることはなかった。2000年半ば以降、様々な分野での対立からWTOがその機能を十分果たせなくなる中で、米国など先進国は二国間貿易協定やTPPなどのメガFTAへとルール形成をシフトしていった。それら協定には必ず知的財産権の章が設けられ、WTOのTRIPS協定以上に知的財産権の保護を強化するような条項が次々と提案された。例えば、TRIPS協定にはない新たなルールとしてTPP協定で規定されたのが「バイオ医薬品のデータ保護期間」だ。製薬企業にとって、バイオ医薬品製造にあたっての各種データを独占的に保護できる期間は当然長ければ長いほど望ましい。一方、医薬品を製造することができない多くの国々にとっては、特許で保護される期間が短いほど安価なジェネリック医薬品が早く手に入ることになる。TPPでは「12年」を提案する米国と、「5年」を主張するベトナム、マレーシア、豪州などが激しく対立し、交渉妥結直前の最難航分野となった。交渉は紛糾し続け、何度も延期・再設定された後、「8年」という結果となった。このように医薬品特許の問題は、過去数十年にわたり議論になり続けているのである。

南アフリカとインドからの提案

 この歴史の延長上に、新型コロナウイルスの感染拡大と、ワクチン・医薬品等のアクセスの問題がある。2020年10月2日、TRIPS理事会にて南アフリカとインドが、新型コロナ関連の医薬品、ワクチン、診断ツールなどにかけられている特許の一部を停止するよう求める共同提案を行なった。この要請は、多くの途上国・新興国が新型コロナへの対応に苦慮し、また医薬品やワクチンの確保を不安視する声を代表するものとして、非常に画期的な提案となった。  提案の概要は、TRIPS協定で知的財産権として保護される対象のうち、「特許」「著作権及び関連する権利」「意匠」「開示されていない情報の保護」に関して、新型コロナウイルスに対する医薬品や治療に関するものを、少なくとも新型コロナが収束までの間は一時停止するというものだ。  例えば、新型コロナ対応の製品のうち、検査キットには特許や貿易上の秘密(いわゆる営業秘密)が、また人工呼吸器には特許の他に意匠(いわゆる工業デザイン)やソフトウェアの著作権、営業秘密などが関わってくる。こうした多種多様な知的財産権が一時停止されれば、途上国・新興国ではこれら製品を各段に安価に手に入れることができ、医薬品や機器を製造できる能力のある新興国(インドやブラジルなど)では、医薬品の製造そのものが可能となる。この提案をした南アフリカのWTO担当代表は、以下のように提案の主旨を述べている。 「COVID-19のパンデミックはWTO加盟国に影響を与え、2020年10月1日現在、世界では約333,722,075人の患者が確認され、1,009,270人の死亡が確認されています。現在までのところ、COVID-19を効果的に予防または治療するワクチンや医薬品はありません。特に、発展途上国と後発開発途上国は不均衡な影響を受けています。COVID-19の新しい診断薬、治療薬、ワクチンが開発される中で、世界的な需要を満たすために、これらがどのようにして迅速に、十分な量、手頃な価格で入手できるようになるのか、大きな懸念があります。医薬品の深刻な不足は、他の伝染性疾患や非伝染性疾患に苦しむ患者にも深刻なリスクをもたらしています。知的財産権が患者への手頃な価格の医薬品の迅速な提供を妨げている、もしくはその可能性があるとの複数の報告があります。COVID-19への迅速な対応のために、国際的な連帯と、技術やノウハウを世界で共有することが緊急に求められています」(参照:南アフリカとインドによる共同提案「COVID-19 の予防と抑制、治療のためにTRIPS協定の特定の条項の権利を放棄すること」
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提案への支持、そして反対の声
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