ブエノスアイレスに立つマラドーナの追悼碑 (Photo by Marcelo Endelli/Getty Images)
アルゼンチン政府、大統領邸でマラドーナの弔問を行うと決定
11月25日のディエゴ・アルマンド・マラドーナの急死はスペインでも速報でメディアは伝えた。
硬膜下血腫の手術後に自宅で静養していたが、心停止を起こし医師の意識回復への努力もむなしく生きを引き取ったという。しかし、救急車が到着するまでに30分を要したということで彼の弁護士は医師と救急医療班の怠慢を調査しているという。
一方でアルゼンチン政府は3日間の喪に服した。また26日午前6時から午後4時まで大統領官邸カサ・ロサダの「ラテンアメリカ愛国者の広間」に遺体を安置して弔問者の訪問を受けつけ、数千人近い弔問客が行列をなしたという。これはマラドナの家族が受け入れないとできないこと。この広間は2007年に死亡したネストル・キルチネール大統領の時の葬儀にも使われたところだ。多くのファンが集まったことで、弔問の時間の延長が求められたが、ファンと大統領府を警備する警官隊の間で一悶着あり、28日まで予定されていた弔問が打ち切られる一幕もあったという。
「ディエゴとだったら世界の端まで行くつもりだ。でも、マラドーナとはそこの隅まででも行きたくない」と語ったのは彼の友人でありトレーナーでもあるフェルナンド・シニョリニだ。〈参照:「
La Nacion」〉
シニョリニが言うところの“ディエゴ“とは、マラドーナの子供時代に懸命にサッカーに励んでいた姿であり、また世界のトップ選手になっても一旦グランドに入ればすべての悩みを忘れてサッカーだけに熱中する男のことである。そして、シニョリニが言うところの“マラドーナ“とは、自らの名声に精神的に押しつぶされてそれを支え切れず薬物(コカイン)の常習者になって行った男のことだ。しかも、最初の妻との離婚問題や他の女性との関係からのスキャンダルもマラドーナの苦痛の種となっていた。それも彼の精神を不安定なものにさせた。
マラドーナの90年代の侍医アルフレド・カエが指摘しているように、マラドナは慢性的に鬱でメランコリーに支配されていた。そして、それに打ち勝つだけの精神的強さが彼には欠けていた。〈参照:「
El Pais」〉
だからまだアルゼンチンでプレーしていた頃の1981年に「私はもう疲れて切っている。毎日が追い詰められた感じだ。もう我慢できない。サッカーからもう離れたい。ボカ(ジュニオールス)とは契約は果たすが、サッカーから一時離れることにする」と語っていたという。その翌年にバルセロナに移籍するのであるが、親しい人に彼の内心を語ったそうで、その人物がマラドナに代わって代弁したのは「誰もが理解して欲しいのはマラドナは幸せをもたらす機械ではない」ということだった。この精神的な苦しみがバルセロナでプレーするようになってからコカインに取りつかれるようになって行くのであった。この時からマラドナはコカインの常習者になってしまうのである。
筆者が思い出すのはマラドナがアリカンテのメリアホテルに宿泊していた時に麻薬の常用で彼が宿泊していた部屋のドアを壊したというのが紙面の記事になったのを記憶している。