安倍首相の答弁を手がかりに報じることが可能だったはずのこと
12月2日に発売される予定の『
日本を壊した安倍政権』(ハーバービジネスオンライン編・田中信一郎ほか著・扶桑社)に収録された筆者の原稿、「
誰のための働き方改革か―高度プロフェッショナル制度は、なぜ注目を集めずに成立したのか―」に詳しく書いたことだが、
安倍政権は、「働く人のための働き方改革」というイメージをあらかじめ定着させたうえで、一括法案の中に労働時間規制の緩和策である裁量労働制の拡大と高度プロフェッショナル制度の創設を盛り込んだ。それは、周到に用意された作戦だったと言える。
2015年の労働基準法改正案は「
残業代ゼロ法案」としてメディアで取り上げられ、世論の反対も強かったことから、国会には提出されたものの審議されずに継続審議扱いとなっていた。その「残業代ゼロ法案」に、罰則つきの時間外労働の上限規制という労働者側が求めていた法改正を抱き合わせにして、「働き方改革」という見栄えのよいパッケージに仕立てて法改正を目指したのが、2018年の通常国会だった。そして、裁量労働制の拡大は上記の経緯から削除に至ったものの、高度プロフェッショナル制度は法改正により制度創設に至った。
裁量労働制をめぐっては安倍首相の答弁撤回を契機に多くのメディアが取り上げたことによって世間に知られることとなったが、高度プロフェッショナル制度が「働き方改革」によって導入されることは、野党や労働団体や「過労死を考える家族の会」の方々や様々な市民団体の行動にも関わらず、広く知られることはなかった。
朝日新聞や毎日新聞は、高度プロフェッショナル制度をめぐって日々、国会で繰り広げられる質疑の論点を詳しく取り上げてはいたが、
そもそも何が問題となっているのかを広く世の中に知らせる姿勢は乏しかったと筆者は感じている。
NHKはニュースで高度プロフェッショナル制度を「時間ではなく成果で評価するとして労働時間の規制をはずす高度プロフェッショナル制度」と、繰り返し報じていた。労働法を知らない人がこのフレーズを耳にすれば、「労働者がより柔軟に働けるようになる制度」だと思うだろう。そのような
誤認を誘うための「働き方改革」という名づけであり、「時間ではなく成果で評価するとして労働時間の規制をはずす高度プロフェッショナル制度」というフレーズだった。
だからこそ、「
岩盤規制に穴をあけるにはですね、やはり内閣総理大臣が先頭に立たなければ、穴はあかないわけでありますから、その考え方を変えるつもりはありません」という安倍首相の答弁は、大きく取り上げて報じられてしかるべきだった。
なぜ労働法制を安倍首相は「岩盤規制」と呼んだのか、なぜ安倍首相は先頭に立ってその労働法制に穴をあけようとしているのか。それを説明する中で、
労働法とはそもそも、
劣悪な労働条件のもとで働かせる使用者に規制をかける目的で歴史的に制定されてきたものであること、
労働時間の規制をはずすとは使用者が規制に縛られなくなるという意味であり労働者が規制から自由になるという意味ではないこと、
労働者はむしろ、みずからが労働法によって手にしている権利を失うことになること、だからこそ、
その規制の緩和・撤廃を経済界が強く望んでいること――そういった大きな構造的な理解を、世の中に広く与えることができたはずだ。
そういう基本的な解説記事を伴ったうえで法改正の動きを伝えれば、世論の関心も警戒心もより高まっただろう。しかし、既にこの問題に注目している人の外側に向けて関心を促すような記事は乏しかった。NHKが「クローズアップ現代+」の特集で高度プロフェッショナル制度を取り上げたのも、衆議院厚生労働委員会で法案の採決がおこなわれたあとの
5月30日になってからのことだ。
前掲の国会パブリックビューイングの映像で確認していただきたいが、「岩盤規制に穴をあけるにはですね、やはり内閣総理大臣が先頭に立たなければ、穴はあかないわけでありますから、その考え方を変えるつもりはありません」と安倍首相が長妻議員に答弁した際、
安倍首相は答弁書に目を落とさずに長妻議員に向き合って自分の言葉で語っている。考えを改めていただきたいと言われて、隠しておくべき本音をつい語ってしまったと思われる場面だ。続いて調査結果を紹介する場面では、答弁書に目を落としている。
その様子からも、ここが注目に値する場面であることは、見ていた記者は気づけるはずだった。労働法制をめぐるそれまでの与野党の攻防や、「
世界で一番企業が活躍しやすい国を目指します」と企業寄りの姿勢を安倍首相がかつては明確に語っていたことを知っているなら、なおさら注目に値する答弁だった。しかし、報じられなかった。
当時、筆者は安倍首相の答弁撤回で急に取材が押し寄せるようになり、その後の国会審議にも継続的にコミットしていったため、この1月29日の安倍首相答弁のうち、岩盤規制をめぐる答弁については、深く掘り下げることも、広く知らせることも、できなかった。労働時間の規制をはずすとはどういう意味かを丁寧に解説するWEB記事は下記のように執筆して公開したが、新聞記事に比べて届く範囲はおのずと限られていただろう。
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「高度プロフェッショナル制度「きほんのき」(1):「労働時間の規制を外す」→でも労働者は時間で縛れる」(Y!ニュース 2018年6月1日)
安倍首相の答弁撤回時の筆者のツイッターのフォロワー数は4000程度で、答弁撤回後によって注目が集まり、フォロワー数は短期のうちに数倍に跳ね上がっていったが、「岩盤規制」をめぐる安倍首相の答弁に注目した上記の筆者のツイートのリツイートは15件、引用リツイートが2件、「いいね」が6件(2020年11月23日現在)という件数が示すように、筆者が注目したことによって報道機関が注目する、という状況でもなかった。
「岩盤規制」をめぐるこの安倍首相の答弁に、記者はそもそも注目しなかったのか、それとも、注目はしたが取り上げるほどの意味はないと考えたのか、そこは分からない。
しんぶん赤旗の「桜を見る会」スクープを振り返った
前述の毎日新聞の記事には、しんぶん赤旗日曜版の山本編集長のこういう興味深い声が紹介されている。
“
「そもそも赤旗のスクープは大手メディアも追っかけないケースが多いです。今でこそ『(週刊)文春によると』という引用はありますが、『赤旗によると』は書きづらい。だから、他のメディアの方からは、『国会で(赤旗のスクープ記事を共産議員が)取り上げてください』と言われます。国会でやれば書けるということらしいです」“
他紙の後追い取材はやりいくい、国会でやれば書ける、と。しかし、安倍首相の発言は国会の、それも衆議院予算委員会での、答弁だった。なのに、取り上げられなかった。「桜を見る会」に関する田村智子議員の質疑も、翌朝の新聞の政治面では簡略に紹介されたのみで、ツイッターで話題になったことから毎日新聞統合デジタル取材センターが注目して国会審議を詳しく紹介したことを起点として、その後、大手紙の後追い報道が展開されることとなった。
そういう経緯を見ると、
記者が現場で違和感を持てること、その違和感を深堀りできること、それを記事で大きく取り上げることができること、そのための条件はどこにあるだろうかという問いは、まだ続くのだ。
<文/上西充子>