―― とすると、ロッキード事件には何の陰謀もなかったということですか。
春名: そうではありません。やはり
謀略と呼べるものはあったと思います。
冒頭で述べたように、チャーチ小委員会はロッキード社にわいろを渡した外国政府高官名の入った文書の提出を求めますが、妥協の末、政府高官名の入った文書の入手を諦めます。
同じころ、米証券取引委員会(SEC)もロッキード社に関係文書の提出を命じていました。ロッキード社はこれにも抵抗しますが、SECはロッキード社を相手取って訴訟を起こしたのです。
この裁判ではSECの主張が認められると見られていました。そのため、国務省内で警戒感が強まります。SECが外国政府高官名を盛り込んだ資料を公開すれば、その高官が属する外国政府との外交関係が損なわれ、国際的な混乱に陥ると考えていたからです。
そこで、国務省は裁判所に意見書を提出します。外交の専門知識を有する国務省が裁判所に、外国政府高官名の公開の是非に関して助言すると提案したのです。裁判所側はこの意見書を受け入れます。それにより、ロッキード社のどの文書を公開するか、国務省が判断できるようになったのです。
東京地検特捜部が入手したのは、このSECの文書です。その中には「Tanaka」や「PM(首相)」などと記された文書がありました。国務省の意見書に「国務省担当官は、ロッキード社から秘密の支払いを受けたと見られる友好国政府高官の名前を含む文書のうち、提出命令が出ているいくつかの文書を検査した」と記されていたことを踏まえると、彼らは「Tanaka」と書かれた文書が存在することをわかった上で、あえてその公開を認めたと見るべきでしょう。
この意見書を書いたのは、当時国務長官だった
キッシンジャーです。つまり、キッシンジャーは結果的に田中が訴追されてもかまわないと考えていた可能性が高いのです。
キッシンジャーには田中を政治的に葬りたいと考える動機がありました。最大の動機は
対中外交です。
田中は首相に就任すると、日中国交正常化に乗り出します。しかしキッシンジャーは、日中関係は「上海コミュニケ」の線に沿うべきだと考えていました。上海コミュニケとは、1972年にニクソン大統領が電撃訪中した際に発表された共同コミュニケです。これはキッシンジャーが秘密裏に訪中し、まとめ上げたものです。この上海コミュニケでアメリカは「一つの中国」も「台湾は中国領土の一部」も認めていなかったので、キッシンジャーは田中外交に不満を抱いていたのです。
とはいえ、キッシンジャーは田中を表立って批判することはできませんでした。そんなことをすれば、ニクソン政権の対中戦略、ひいては世界戦略が表沙汰になってしまうからです。
最終的に、キッシンジャーは日中国交正常化は不可逆的と結論づけます。しかし、上海コミュニケを自らの業績と誇るキッシンジャーにとって、これは大変な屈辱でした。そのため、キッシンジャーは田中を「ジャップ」とまで言い放ったのです。これがキッシンジャーが田中の訴追を容認した背景だと思います。
もっとも、現時点ではこの問題についてキッシンジャーの意図と直接関与を示す文書は発見されていません。しかし、ロッキード事件の最中、政府高官名が公開されることを懸念していた国務副長官インガソルが突然辞任するなど、不可解な動きが起こっています。インガソルは辞任に際し、「複雑な気持ちです」と述べています。文書公開をめぐってキッシンジャーと対立したことが辞任につながったと推測されます。
―― 陰謀論を一つ一つ検証していくことで、根拠のない説と、蓋然性の高い説をはっきり区別できることがわかりました。これはロッキード事件に限らず、あらゆる問題を論じる上で必要な態度だと思います。
春名: 私はここまで陰謀論を批判してきましたが、国際政治では常に謀略が行われていることも事実です。キッシンジャーがやったことも陰謀と言って差し支えありません。いまこの瞬間も国際社会では陰謀が行われているはずです。
しかし、安易に陰謀論に飛びつくのはやはり問題です。重要なのは、ある説が唱えられたとき、その根拠はなにか、情報源はどこにあるのかということをしっかり確認することです。こうした作業を積み重ねていけば、陰謀論を見分ける力が身につき、陰謀論に流されることはなくなると思います。(11月6日、聞き手・構成 中村友哉)
<記事提供/
月刊日本12月号>
はるなみきお●1946年京都市生れ。国際アナリスト、NPO法人インテリジェンス研究所理事。共同通信社で大阪社会部、本社外信部、ニューヨーク支局、ワシントン支局を経て93年ワシントン支局長を経て、2004年特別編集委員、07年退社。名古屋大学大学院教授、早稲田大学客員教授を歴任。近著に『
ロッキード疑獄 角栄ヲ葬リ巨悪ヲ逃ス』(KADOKAWA)