ロッキード事件の陰謀論を検証したジャーナリストが語る、陰謀論に流されない方法<ジャーナリスト・春名幹男>

ロッキード疑獄 書影

春名幹男氏の新刊『ロッキード疑獄 角栄ヲ葬リ巨悪ヲ逃ス』(KADOKAWA)

ロッキード事件の陰謀論を徹底検証

―― アメリカでは大統領選挙をめぐる陰謀論が飛び交っており、日本にもそうした陰謀論を真に受けている人たちがたくさんいます。これまでも日本やアメリカを舞台に数々の陰謀論が流されてきましたが、私たちは陰謀論に対する耐性をつける必要があります。春名さんは新著『ロッキード疑獄 角栄ヲ葬リ巨悪ヲ逃ス』(KADOKAWA)で、ロッキード事件をめぐる陰謀論を徹底的に検証し、その真偽を明らかにしています。 春名幹男氏(以下、春名): これまで日本ではロッキード事件に関して様々な陰謀論が唱えられてきました。その中でも根強く流布してきたのが、ロッキード事件が発覚した経緯をめぐる陰謀論です。  これは、ロッキード社の秘密文書がアメリカ上院外交委員会多国籍企業小委員会(チャーチ小委員会)の事務局に誤って配達された結果、ロッキード事件が明るみになったとする説です。チャーチ小委員会はロッキード事件を暴いたことで知られていますが、そのきっかけは「誤配」だったというわけです。  当時のメディアもこの陰謀論を盛んに報じていました。たとえば、ロッキード事件が表面化した翌日の1976年2月6日、毎日新聞が朝刊一面で誤配説を報じています。また、朝日新聞も同日の夕刊二面トップで誤配説を紹介しています。これらの記事のもとになったのは、おそらくウォールストリート・ジャーナル紙の「ロッキードL1011の対外販売に絡む贈賄に関する資料、上院委員会に誤配」とする記事だと思います。  この手の情報はミステリーのように面白いので、瞬く間に拡散し、尾ひれがついてしまいがちです。実際、日本でも多くの人たちが誤配説を信じています。  しかし、私がチャーチ小委員会の首席顧問だったジェローム・レビンソンに直接インタビューしたところ、レビンソンは誤配説を否定しました。レビンソンの説明から、以下のことがわかりました。  ロッキード社の疑惑が浮上した際、チャーチ小委員会は議会の調査権を行使し、ロッキード社がわいろを渡した外国政府高官の名前を明らかにするように命じました。しかし、ロッキード社は名前を公表された外国政府高官に反論の機会が与えられないのはフェアではないとして、外国政府高官名が記された文書の提出を拒否します。  これに対して、チャーチ委員長は最終的にロッキード社の言い分を認めます。そのころチャーチは大統領選挙予備選への出馬を予定していたので、チャーチ小委員会を早じまいする決断をしていたようです。チャーチ自身が多忙になっていたことが、ロッキード社への譲歩につながったということです。そのため、ロッキード社が提出した文書には外国政府高官の名前が記されていませんでした。  この文書はロッキード社の監査法人だった会計事務所を通じて、チャーチ委員会の事務局に運ばれます。ロッキード社もチャーチ側もお互いに取引したことを知られたくなかったので、会計事務所を通じてやり取りすることにしたのでしょう。  首席顧問だったレビンソンはこのことを知らなかったようです。そのため、レビンソンは、文書提出を命じるチャーチ小委員会と、提出を渋るロッキード社の間で板挟みになった会計事務所が、ロッキード社の許可をとらずに文書を持ってきたと誤解していました。こうした動きが「誤配」と勘違いされたのだと思います。

角栄の資源外交はアメリカから歓迎されていた

―― ロッキード事件に関しては、田中角栄が日本独自の資源供給ルートを確立するため、積極的な資源外交を展開していたことが、アメリカの怒りを買い、角栄逮捕につながったとする説もあります。 春名: 田中角栄の資源外交がアメリカの反発を招いたとする説を広めたのは、田原総一朗氏の『アメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄』(『中央公論』1976年7月号)です。この論文は今日に至るまで繰り返し引用され、再生産されてきました。政治学者の新川敏光氏は、ロッキード事件の陰謀論をたどると、どの説も田原論文にたどりつくと述べています。  田原論文は様々な陰謀説を満載しており、刺激的で面白い読み物です。しかし、確認不可能な伝聞情報で構成されていて、情報源が不明です。本当に情報源が存在するかどうかさえわかりません。  田中角栄がエネルギーの安定的確保のため、大手石油企業(メジャー)の支配から独立し、供給源を多角化しようとしていたことは事実です。たとえば、田中はソ連と協議し、チュメニ石油開発、ヤクーツク天然ガス開発、ヤクーツク・コークス開発、サハリン大陸棚石油・天然ガス炭鉱などに関する交渉を行っていました。  しかし、日本政府はこれらの前提条件としてアメリカの参加を掲げており、特にヤクーツク天然ガスおよびサハリン大陸棚探査の成功はアメリカの参加にかかっているという立場でした。田中がブレジネフ書記長と結んだ日ソ共同声明にも、アメリカの参加を念頭に「第三国」の参加を排除しないと明記されています。  田中はニクソン大統領との会談でもアメリカとの共同開発を提案し、ニクソンあてにシベリア開発に関する覚書も提出しています。これに対して、ニクソンは田中への返書で「日米共同参加が望ましいことを承知している」として、「米民間企業および銀行の参加を促進するため、法的権限を適切に行使する」と記しています。  アメリカはシベリア開発について、ソ連側がアメリカとの長期的協力事業、特にシベリアのエネルギー開発の成功をアメリカとの経済デタント(緊張緩和)の主要部分と見ているとして、米ソ関係を安定させるモデル事業と考えていました。つまり、田中の提案したプロジェクトは、アメリカの逆鱗に触れるどころか、米ソのデタントを進める上で重要な役割を果たしていると見られていたのです。  また、アメリカは田中がウラン濃縮事業への参加を積極的に進めていたことを警戒していたとする説もありますが、真相はまったく逆です。むしろ日本にウラン濃縮事業に参加するように提案してきたのはアメリカ側です。  ニクソン政権のハビブ国務次官補がスコウクロフト大統領副補佐官に提出した「対日政策見直し」文書には、アメリカの目標は「他の西欧諸国と同様、日本に対しても信頼できる濃縮ウラン供給国であるべきだ」と記されており、日本がアメリカの次期濃縮ウラン施設へ参加することも日本の資本投資の恩恵を得るために歓迎するとされていました。  これに先立つ1971年7月には、アメリカ政府はウラン濃縮に関するガス遠心分離技術をアメリカ国外に建設された多国間所有の工場に提供する用意があると表明し、日本がその検討作業に参加する意思を示すというやりとりがありました。  1972年に田中とニクソンがハワイで行った日米首脳会談でも、アメリカのガス遠心分離工場建設と日本の財政支援参加の可能性について、日米が合同作業グループを設置することで合意しています。  もちろんアメリカ政府内には、当時の日本が核拡散防止条約(NPT)に未批准だったことを問題視する向きもありました。日本が国会でNPTを批准承認したのは1976年5月ですから、事業開始は大幅に遅れていました。  しかし、以上の経緯を見れば、アメリカが田中のウラン濃縮拡大政策を警戒していたとは言えません。田中の資源外交がアメリカの虎の尾を踏んだとする説には根拠がないのです。
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根拠は何か?情報源はどこなのか?を常に考える姿勢
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月刊日本2020年12月号

【特集1】「権力との対決」こそメディアの使命

【特集2】大統領選挙 混迷を極める米国

【特集3】種苗法改正が農業を破壊する




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