孤独な老婦人を描く『おらおらでひとりいぐも』。老いることで得られるものとは?
『おらおらでひとりいぐも』が公開されている。
本作が原作としているのは、第158回芥川賞と第54回文藝賞をダブル受賞した若竹千佐子による同名のベストセラー小説。監督は『横道世之介』(2013)や『モリのいる場所』(2018)などの沖田修一。昭和・平成・令和と時代を駆け抜けた女性を、田中裕子と蒼井優が2人1役で演じていることも本作の目玉となっている。
これだけだと、ひとりの女性の生き様を見つめるドラマとして「良くある」ものと思われるかもしれないが……実際の本編は、良い意味でとても変わった、いや度肝を抜かれるほどに奇抜で、それでいて普遍的かつ優しいメッセージも備えた内容であった。その具体的な魅力を以下に記していこう。
75歳の桃子さんは夫に先立たれ、孤独な毎日を過ごしていた。寝床から這い出て朝ご飯を食べ、テレビに向かって独り言をつぶやき、昼ご飯を食べて、近所を散歩して、夕ご飯の仕度をして、そして寝る、という同じことの繰り返し。近所の図書館で本を借りて、地球の誕生から46億年の歴史についてのノートを作るという趣味はあるものの、なじみの司書の女性に大正琴や太極拳に誘われても挑戦する気は起きないでいた。
そんな桃子さんの前に、ある日3人の“心の声”が現れる。彼らは時に桃子さんの素直な気持ちを代弁し、時にはジャズを演奏したりもして、その生活は賑やかな毎日へと変わっていく。さらに桃子さんは遠い過去の出来事を思い出し、とある心境の変化も訪れることになる。
基本的な内容は、ほぼほぼ「孤独な老婦人の日常を追うだけ」と言っても過言ではない。これだけならエンターテインメントとして成立するはずもないのだが、主人公の心の声となる3人の存在がとてもユニークだ。濱田岳、青木崇高、宮藤官九郎という個性の強い俳優たちの掛け合いはトリオ漫才劇のようで、とにかく楽しい。例えば、桃子さんが娘に「お金を貸して」と迫られた時に、心の声は「(疎遠になってた娘の定番のセリフが)出たよ~」とあきれつつ言い、3人それぞれがどう返答するかを考えたりもするのだ。
ありえないファンタジーの描写のようで、この心の声は普遍的に年老いた人の側に、実際に“いる”のかもしれない、とも思えるだろう。彼らは誰もが口にしたことがある“独り言”そのものとも言えるし、幼い子どもの成長過程で見られるイマジナリーフレンド(想像上の友だち)が復活したという解釈もできる。漫才的なクスクスと笑える要素をもってして、誰もが「こうなのかもしれないなあ」と孤独な老婦人の寂しい心情に寄り添えるようになっているのだ。
ちなみに、この心の声はほぼ映画のオリジナル要素。原作での桃子さんの不安定な心は「ふわりふわりとあっちゃこっちゃに揺らぐ無数の絨毛突起で覆われている」などと表現されており、これを実写の映像で描くのはまず不可能であるし、やったとしても視覚的に面白くない表現になってしまうだろう。
だからこそ、沖田修一監督は「寂しい心を擬人化する」という方法に打って出た。この大胆な原作からの改変による楽しさが、本作の何よりの美点だ。その他でも、昔馴染みの警察官や、カーディーラーの青年とのおかしみに満ちた(でもちょっと不安なところもある)会話劇を聞くだけでも笑顔になれるはずだ。
大胆と言えば、誰もが度肝を抜かれるものがオープニングにある。良い意味で頭の中が「???」でいっぱいになることは必至、人によっては「間違って別の映画を観に来ちゃった?」と思ってしまうかもしれないこのサプライズの詳細は秘密にしておこう。それは決して気をてらっただけのものではなく、しっかりとした意味も込められている。
それ以外にも、本編には「えっ!?」と驚くしかない“仕掛け”があちこちに施されている。例えば、桃子さんが晩ご飯を食べていると、突然ふすまが開いて……その先もやっぱり秘密にしておこう。とにかく、「孤独な老婦人の日常を追うだけ」という内容にもかかわらず、クスクスと笑えて、年老いて孤独な人の気持ちに寄り添っていて、何よりもびっくりしてしまう要素が散りばめられているので、全く退屈することなく最初から最後まで楽しめる映画になっているのだ。
前述した孤独な老婦人の日常の他に、本作にはもう1つ重要な物語の軸がある。それは、主人公の桃子さんの若かりし日(20歳~34歳)の回想だ。
時は1964年、日本で初めてのオリンピックが開催された年。20歳の桃子さんは、気の向かないお見合いの席から逃げ出して身ひとつで上京する。蕎麦屋や定食屋で働き、やがて常連客となっていた青年と恋に落ちることになる。
このパートはもちろん、若い男女が次第に心を通わせていくラブロマンスとして楽しめる。だが、桃子さんが75歳となった現在ではその恋をしていた青年(夫)は亡くなり、彼女は孤独に生きているため、この回想パートは「過去の幸せだった時の思い出にとらわれている」という解釈もできる。もっと言えば、この若い頃の思い出をもってして、現在の桃子さんが「どのように生きていくか」が、この物語の主題の1つでもあるのだろう。
そこで重要になってくるのが、現在の桃子さんが孤独である反面、とても“自由”であることだ。働く義務もないし、夫に寄り添う“妻”や、(娘がお金を借りにきたりもするが)子どもを育てる“母親”といった、女性としての役割からも解放されている。いわば、これは若者は手に入れることができない、年老いた人だけの “特権”だ。
事実、原作小説の作者である若竹千佐子は、こう語っている。「『山姥』や『黒塚』など古典や能の世界でよく登場する老女は、女の人の解放された姿のひとつの典型。中年以降の女性が妻とか母といった役割を少しずつ脱ぎ捨てていって、自分で自由にものを考えて生きられるようになる。そういう小説を、老いを生きることに価値を見出す物語を描きたかった」と。
年をとる、ということは得てしてネガティブなものとして捉えられがちだ。だが、言うまでもなく人間は誰もが老いるし、死ぬまでの孤独な時間もほとんどの人が経験する。だからこそ、「老いたことで自由になれる」という本作のポジティブなメッセージは多くの人にとっての希望になるだろう。
それでいて、劇中での若い頃の恋の思い出は、やはり輝かしいものとして映る。いくら心の声と楽しい会話をしたとしても、やはり夫のいない現在は寂しさが募るし、様々な感情が巡ってくる。老いたけど解放されて幸せという単純な構図だけにせず、そうした複雑な心の揺れ動きを描き切っていることもまた、本作の美点だ。
11月6日より、映画孤独な老婦人の日常を追うだけなのに……
年老いたことによる自由
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