私はもともと菅野氏と付き合いがあった。ハンストと聞いて彼の身が心配だったこともあり、ハンスト取材を兼ねて菅野氏の元へ通った。
「頑張れ」と言う気にはなれず、ハンストで体力を削られていく菅野氏にインタビューをする気にもなれなかった。毎回何時間も、近くに座ってネット中継を続け、時折菅野氏と会話をし、菅野氏が他の人に話す言葉を聞いた。
SNSやメディアで日本学術会議の「あり方」をめぐる議論やデマが飛び交い、学問の自由・自治をめぐる議論も起こる中、菅野氏が最も重視したのは、
首相による任命拒否は違法であるという点だった。
日本学術会議法は「推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する」(第7条)定めており、推薦に反する人事を認める法解釈も存在しない。首相が堂々と法を破るということは、日本学術会議の「あり方」以前の問題であり、学問や学者のみならず全国民にとっての脅威だ。
菅野氏は首相の無法ぶりを指して「無頼漢」と評し、だからこそ言論ではなくハンストという非言語的な手法を選んだ。そして「(自分を)応援する暇あったら、お前が戦え」(Facebookより)と書いた。前述のように、官邸前でのスピーチで「それぞれの持ち場で戦ってください」と呼びかけた。
私自身、自問自答しないわけにいかなかった。
自分の持ち場は何なのか。自分にできる戦いがあるのか。
菅野氏どころか私の目から見ても十分に戦っているようには見えない分野や団体の中にも、それぞれの「持ち場」で可能な限り抗おうとしている人々はいる。一方で私自身は、ただ黙って座って菅野氏や官邸前の様子を見守っているだけだ。記事を書く仕事はしているが政治記事などほとんど書いておらず、すでに出回っている多くの時事報道や評論以上の「自分なりの政治記事」を書く知識もスキルもない。
この分野で自分の「持ち場」があるとしたら、これまで私がカルト問題に目を向けてもらうために用いてきた笑い混じりのパフォーマンスを応用することではないか。それなら、今も官邸前での様々な抗議活動が続いていることを人に伝えられるのではないか。これが、パンストというわけのわからないパフォーマンスに走った理由だ。
静かな、しかし強烈な抗議
菅野氏が官邸前から姿を消した後も、そこには路上で寝泊まりして抗議を続けている女性がいる。読書をする人々の姿もいまだに絶えない。私の「パンスト」は、こうしたストレートな意思表明を続けている人々がすでにいるからこそできる、補助的なイロモノにすぎない。おそらく、菅野氏が呼びかけた「戦い」とも程遠い。
菅野氏のハンストも、それ以降に路上で寝泊まりしながら座り込みする人の活動も、長期にわたって延々とプレッシャーを与える点で、静かながら強烈な攻撃性をはらんでいる。官邸前での読書は、学問に対して権力を振るった菅首相に対する強烈な当てつけだ。いずれも、「パンスト」よりはるかに直接的だ。
これら全てが、堂々と法を犯した首相への危機感から生まれている。
「パンスト」を見かけて面白がってくれた人にも、冷ややかな反応を示している人にも、
この危機感に目を向けて考えてもらいたい。私自身の行動も危機感ゆえだが、私よりも官邸前の他の人々が表現している危機感のほうが、目を向けさえすれば誰にとっても理解しやすいものであるはずだ。
11月5日。ハンストを行った菅野完氏と私のトークライブが新宿のネイキッドロフトで開催される。この場で、菅野氏とともにこれまでの活動の総括と今後について考えていきたい。
<文・写真/藤倉善郎>