河井克行前法相(時事通信社)
―― 郷原さんは河井克行・案里夫妻の公職選挙法違反事件について、安倍晋三前総理や菅義偉総理(当時は官房長官)は克行氏が広島県内の有力政治家たちに現金を配っていたことを認識していたはずだと指摘しています。
郷原信郎氏(以下、郷原): それに関しては、案里氏をめぐる特殊な状況に注目する必要があります。案里氏が擁立された参院広島選挙区は、長年にわたって2つの議席を自民党と野党が分け合う形になっていました。自民党の現職として当選を続けていたのは、岸田派の重鎮である溝手顕正氏です。自民党はここに2人目の候補者として案里氏を強引に擁立したのです。
これには菅氏と岸田派会長である岸田文雄氏の権力闘争が関係していると思います。菅氏は2019年に新元号を発表したことで、「令和おじさん」として注目されるようになりました。同年5月には官房長官として異例の訪米を行い、存在感を高めます。そのころ、安倍氏は岸田氏を自らの後継者と考えていたため、菅氏と岸田氏の対立関係が取りざたされるようになりました。
菅氏からすると、安倍氏の後継争いで優位に立つためには、岸田派の溝手氏を落選させる必要がありました。もともと菅氏は克行氏と親しく、派閥を超えた議員集団「きさらぎ会」や無派閥議員の会「向日葵会」などで活動をともにしていました。克行氏の妻である案里氏を擁立したのも、菅氏の要請があったからではないかと思います。
これは安倍氏の思惑とも一致していました。安倍氏は以前から溝手氏に強い恨みを持っていたとされています。2007年に第一次安倍内閣が参院選で大敗した際、続投の意向を示す安倍氏に対して、溝手氏は「首相本人の責任はある。本人が言うのは勝手だが、決まっていない」と痛烈に批判しました。2012年には、まだ自民党総裁になっていなかった安倍氏が、当時の野田佳彦政権が進めていた消費税増税関連法案に賛成することと引き換えに衆院選を行う「話し合い解散」を主張したところ、溝手氏は安倍氏を「もう過去の人だ」とこき下ろしました。その溝手氏が、2019年の参議院議員選挙で当選すれば、当選回数から参議院議長に就任させざるを得ない、という安倍首相にとって最悪の事態になる。こうした経緯から、安倍氏も溝手氏を落選させたがっていたと言われています。
しかし、広島県連は溝手氏支持で一本化されていたため、自民党本部のやり方に反発し、案里氏の支援を一切行わない方針を打ち出します。これは自民党公認候補として選挙を行う上で大きな障害です。一般に、県連は選挙の際に所属の国会議員や地方議員などに支援や応援を呼びかけ、候補者を後押しします。自民党本部からの選挙のための活動資金を政党支部や資金管理団体に流すのも県連の役割です。案里氏はこうした県連の支援や協力が全く受けられなかった。
そこで、自民党本部は県連を介さず、克行氏と案里氏の政党支部に直接活動資金を提供します。これが話題になった1億5千万円です。しかし、県内の首長・議員などの政治家に県連経由で活動資金を流すことができない。克行氏としては、県連ルートが使えない以上、自分で直接お金を配るしかなかったのです。その資金が案里氏の支持を拡大するためのものだと理解してもらい協力してもらうためにも、どうしても克行氏が自らお金を持っていく必要があったのです。
安倍氏はこのことを十分認識していたと思います。安倍氏は案里氏の参院選出馬が決まる前後に克行氏と面会していますし、選挙の際には自分の秘書を広島に送り込んでいます。菅氏も同様です。菅氏は創価学会に案里氏支援を要請したと言われていますが、広島県連の応援が得られない中で案里氏が厳しい選挙を戦っていることを知っていたから、こうした行動に出たのでしょう。克行氏が現金を直接配布していたことも含め、選挙情勢や選挙活動の状況について詳細に報告を受けていたと考えるのが合理的です。
―― 郷原さんは、克行氏は黒川弘務元東京高検検事長の助言を得た上で現金配布を行ったのではないかと推測しています。
郷原:克行氏があれほど大胆かつ露骨に現金を配ることができたのは、法務・検察幹部から自分の行為が公職選挙法に違反しないというお墨付きを得ていたからだと思います。その
法務・検察幹部こそ黒川氏です。黒川氏は菅氏に法律に関する様々な助言をしていたと言われており、この件に関しても公職選挙法違反にならないとアドバイスしていたと考えられます。
公選法では買収罪について、「当選を得若しくは得しめ又は得しめない目的をもつて選挙人又は選挙運動者に対し金銭、物品その他の財産上の利益若しくは公私の職務の供与、その供与の申込み若しくは約束をし又は供応接待、その申込み若しくは約束」(221条1項1号)をすることと規定しています。しかし、これまで公選法違反として摘発されてきたのは、選挙期間中に現金を供与するなど、投票や選挙運動の対価であることが明らかな場合だけでした。選挙の公示から離れた時期であれば、たとえ選挙人や選挙運動者に対する供与であっても、選挙区の有権者に候補者や候補者の主張を周知させる「地盤培養行為」としての政治活動と見る余地があるということで、これまで刑事処罰の対象にはされてきませんでした。
河井夫妻が広島県内の有力政治家たちに現金を配布したのは、2019年3月頃からです。これは参院選の約4か月前です。従来ならば、克行氏の行為は公選法違反の摘発対象にはなりにくい行為です。
黒川氏は当時、検察ナンバー2の東京高検検事長で、黒川氏がゴーサインを出さなければ東京地検は捜査を行えない状況にありました。しかも、黒川氏は法務省官房長、事務次官を歴任しており、法務省も事実上コントロールできる立場でした。克行氏にとってはこれほど心強いことはなかったはずです。
ところが、その後の展開は克行氏の想定とは全く異なるものになります。
『週刊文春』が案里氏の車上運動員買収事件を報じたことで、克行氏は法務大臣辞任に追い込まれてしまいます。これを受けて、広島地検特別刑事部が案里氏に対する捜査に乗り出します。それだけでなく、克行氏の現金配布も捜査対象とされ、克行氏の議員会館事務所に対しても捜索が行われたのです。
広島地検特別刑事部は広島高検に属しています。東京高検検事長の黒川氏には手も足も出ません。官邸は焦ったはずです。黒川氏に捜査の主導権を握らせるためには、黒川氏を検事総長にするしかありません。そこで考え出されたのが検事の定年延長だったわけです。
これを主導したのは安倍氏ではなく菅氏だと思います。検察庁法改正が厳しい批判を浴びた際、安倍総理は「黒川さんのことはよく知らないんだ」と当惑していたと報じられています。私が聞いている範囲でも、黒川氏は、官邸の中では安倍氏ではなく菅氏と非常に親しかったそうです。菅氏はポスト安倍候補になるためにも、何としても黒川氏を検事総長にねじ込み、克行氏を守る必要があったのです。
しかし、ここで再び誤算が生じます。『週刊文春』が
黒川氏の賭け麻雀問題を報じたことで、黒川氏が辞任に追い込まれてしまったのです。その後、黒川氏が去った東京高検の指揮のもと、河井夫妻は公選法違反で逮捕されるに至りました。
これが一連の事件の背景だと思います。