男性同士の恋愛を男女に置き換えたのは何が問題だったのか。映画『マティアス&マキシム』コラボポスターにおける「ヘテロウォッシュ」の問題
男性同士のキスシーンが男女に置き換えられ非難が殺到
ゲイについてではなく、人生についての映画?
「僕にとってこれはゲイについてではなく、人生についての映画なんだ。 例えば、ヘテロセクシュアルの映画についてそれを問題にしたりしないよね。『ヘテロセクシュアルの素晴らしい映画を見たよ』なんてあえて言わない。 これはただのラブストーリーなんだ」 ドラン監督は、オープンリーゲイで、これまで多くのLGBT+映画を製作してきた。今回の映画のストーリーは、幼なじみのマティアスとマキシムが、知人が撮る自主製作映画で男性同士のキスシーンを演じることになり、その偶然のキスをきっかけに、秘めていたお互いへの気持ちに気付き始めるというものだ。 この発言自体は決して間違ったものではない。しかし、どこか違和感がある。なぜだろう。もし、この言葉がゲイではなく、ヘテロセクシュアルの人物から発せられたとしたらどうだろうか。あるいはカナダではなく、同性婚すら認められていない日本で発せられたとしたらどうだろうか。 上記のポスターをこの発言と同じように置き換えて考えてみよう。たとえば、パラリンピックのポスターに健常者がずらりと並んでいる、あるいは黒人差別を描いた映画のポスターに白人しか映っていない、そういったことと同じではないだろうか。もっというと、「Black lives matter」という代わりに、「All lives matter」というのに近しいものすら感じる。 背筋が寒くなる。 もう一歩進んで、なぜこのような背筋の寒さが生じるのだろうか。ドラン監督の言葉は決して間違ったものではない。また、ポスターの方も同性愛を貶めるような意図があった訳ではない。それなのに、なぜこれほどにぞっとするのだろうか。僕にとってこれはゲイについてではなく、人生についての映画なんだ。
— 映画『マティアス&マキシム』|9月25日公開 (@mattandmax_jp) September 16, 2020
例えば、ヘテロセクシュアルの映画についてそれを問題にしたりしないよね。「ヘテロセクシュアルの素晴らしい映画を見たよ」なんてあえて言わない。
これはただのラブストーリーなんだ。
—— #グザヴィエ・ドラン pic.twitter.com/jnsyv1tQf2
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