クィア理論家のイヴ・コゾフスキー・セジウィックは、同性愛をめぐる論争には
「マイノリティ化の見解」と「普遍化の見解」の矛盾があると主張した。
「マイノリティ化の見解」とは、固定的で明確なアイデンティティをもったマイノリティ集団としてLGB+を措定し、同性愛をその集団の固有の問題と考える⽴場だ。たとえば、ポスターを異性愛カップルに置き換えることに反対する意見はこちらに分類されるだろう。
一方、
「普遍化の見解」とは、様々なセクシュアリティの連続体を措定し、同性愛を様々な⼈々に共通する問題と考える⽴場だ。恋愛に性別はないと主張し、ゲイ映画のポスターを異性愛カップルに置き換えても問題ないとする意見はこちらに分類されるだろう。
セジウィック自身は、この矛盾に対して、どちらが正しいとか優れているとかいう判断は行っていないし、わたしも長期的にはそれに賛同する。
どちらの言説も、LGB+肯定的にも、差別的にもなりえるものであり、その都度状況によってどちらを採用するか判断する他ないだろう。
しかし、
短期的には「マイノリティ化の見解」を取るべきではないかと私は思う。なぜならば、
いまだに同性愛が差別されており、不可視化されている状況のなかで、LGB+の存在は簡単にかき消されてしまうからだ。また、もし「普遍化の見解」を取った場合であっても、その前提条件として普遍化の対象である同性愛が可視化されている必要があるため、「マイノリティ化の見解」が先立つと考えられる。
具体的にポスターを見ていこう。同性愛が差別されている現代日本では、このポスターを見ると、マイノリティのLGB+の人々の多くは、せっかくこの映画によって自分たちの存在が可視化されたのに、またこの
2枚目のポスターによってかき消されてしまったように感じただろう。少なくとも、バイセクシュアル当事者である私自身はそう感じた。このように、LGB+の存在がヘテロセクシュアル化されてかき消されることは、一般的に
「ヘテロウォッシュ」と呼ばれている。
さらに、マジョリティのヘテロセクシュアルの人々の中には、この
男性ふたりの恋愛をまるで異性愛カップルの模倣のように感じてしまうような人々もいるかもしれない。加えて、「なるほど左側が『女役』なんだな」といった誤解を抱いたり(基本的にゲイカップルに女役男役というものはない)、あるいは「やっぱり同性愛は気持ち悪いからカメラで遮断して隠すんだな」と考えたりする人々がいるかもしれない。そんな不安も、背筋の寒さに拍車をかける。
ただし、「マイノリティ化の見解」を取った場合であっても、難点はある。LGB+と異性愛中心社会との間の分断を深めてしまう可能性があること、またそれによってLGBでもヘテロセクシュアルでもない「+」の部分に分類される人々(クエスチョニングなど)が孤立感を強める可能性があることだ。しかし、
こういった問題も、そもそもLGB+が可視化されている状況になることが前提として発生する問題であって、まずは可視化がなされなければならないだろう。
先日、映画館でこの映画を実際に鑑賞してきた。
本当に美しい映画だった。活き活きと映し出される友人たちの馬鹿騒ぎ、ケベックの森や湖や街、そしてマティアスとマキシムの微妙な感情の移り変わり。色彩、空気、音楽。
とりわけ、
この映画は同性愛というファクターなしに語れるものではないと感じた。社会による同性愛差別、キャラクター本人が内面化した同性愛への抵抗感、セクシュアリティの揺れ、そういったものなしにこの映画を語ることはできない。そんななかで、
簡単に異性愛のドラマと置き換えてしまうのは、この映画の魅力を引き出すことにはつながらないだろう。
また、成功した恋愛映画はみなそうだが、そもそもこの映画におけるマティアスとマキシムの関係性も、世間一般のいわゆる恋愛というより唯一無二の関係性ではないかと思った。世間一般で流通している恋愛という定型的な人間関係ではなく、よりオリジナルな関係性がふたりの間にはあるように感じた(もちろん同性の恋愛が恋愛ではないといっているのではない)。幼い頃からふたりの間に育まれた友情/愛情は、恋愛という言葉だけで語り尽くせないものだ。恋愛という小さな箱に押し込めて普遍化してしまうよりも、
むしろそんな唯一無二の関係性をポスターで強調する方が、この映画の魅力を引き出せるのではないだろうか。
男性同士の恋愛を男女に置き換えるヘテロウォッシュ。それは多くのLGB+当事者の心を傷つける差別だ。そのことを分かってほしい。
<文/川瀬みちる>