テレビの威力をさらに強めたのは、テレビの大型化です。
2001年、行政府の再編統合によって誕生した総務省は、地上波テレビ放送のデジタル化を決定します。総務省は、2011年までにアナログ放送を終了させ、デジタルチューナー内蔵テレビへの買い替えを推進していきました。この政策によって、ブラウン管型のテレビは姿を消していきます。視聴者は半ば強制的にテレビの買い替えを迫られたのです。新たにお茶の間に持ち込まれたデジタル波対応のテレビは、液晶テレビでした。従来のブラウン管テレビよりも薄く、画面サイズの大きいものです。画面の縦横比は横長になり、画面全体で2倍ほど大きくなったのです。お茶の間のサイズは変わっていないのに、テレビだけ大画面サイズになったのです。
ニュースを読み上げるアナウンサーのサイズは、実際に座っている人間と同等か、それ以上のものになりました。解像度は上がり、生々しく臨場感のある人間がお茶の間に現れることになります。この実物大のアナウンサーが、充分にバランス感覚をもった多角的な報道をしてくれるのならよいのですが、テレビはそうではありません。橋下徹のような高圧的で扇情的な人間が、毎日のようにお茶の間に上がり込んできて、持論をまくしたてるのです。これは一種の環境汚染と言えると思います。老親がテレビをつけると、実物大の関西人があらわれて、真偽の怪しい話を大声でまくしたててくるのです。それが毎日のように繰り返されるのです。押し売りの訪問販売より悪質です。大画面テレビによって、実家のお茶の間は非常に居心地の悪いものになってしまいました。
ブラウン管テレビの時代、テレビは子供のものでした。テレビ漬けになっている「テレビっ子」に対して、親はしょっちゅう叱りつけていたものでした。現代はその関係が逆転してしまって、老親がテレビ漬けになっているのです。これが子供であれば、「テレビばかり見てるとバカになるぞ」と叱りつけることもできるでしょう。しかし、年老いた親に向かって「バカになるぞ」とは言いにくいものがあります。外出もままならない娯楽の少ない高齢者に、テレビを消せとはなかなか言えない。そうした難しさがあって、高齢者は催眠商法のようなワイドショー番組にさらされ続けているのです。
「#橋下徹をテレビに出すな」というツイッターデモは、たんに橋下徹氏の政治主張が気に食わないということではないのだと思います。このデモには、もっと切実な問題を含んだ背景がある。切実な問題とは、橋下氏ではなく、テレビです。テレビが視聴者にもたらしている情報環境汚染、とくに高齢の視聴者にたいする有害な効果を問題にしているのではないでしょうか。老親を持つ私のような世代にとって、問題は切実です。体力の低下した高齢者を、短絡的な論調で扇動しないでほしいのです。
<文/矢部史郎>
愛知県春日井市在住。その思考は、フェリックス・ガタリ、ジル・ドゥルーズ、アントニオ・ネグリ、パオロ・ヴィルノなど、フランス・イタリアの現代思想を基礎にしている。1990年代よりネオリベラリズム批判、管理社会批判を山の手緑らと行っている。ナショナリズムや男性中心主義への批判、大学問題なども論じている。ミニコミの編集・執筆などを経て,1990年代後半より、「現代思想」(青土社)、「文藝」(河出書房新社)などの思想誌・文芸誌などで執筆活動を行う。2006年には思想誌「VOL」(以文社)編集委員として同誌を立ち上げた。著書は無産大衆神髄(山の手緑との共著 河出書房新社、2001年)、愛と暴力の現代思想(山の手緑との共著 青土社、2006年)、原子力都市(以文社、2010年)、3・12の思想(以文社、2012年3月)など。