従来から戦時下での野球には強い関心が寄せられてきたが、終戦後の動きに関してはあまり一般に知られていない。
実は、終戦後に野球は他競技に比べてもかなり早く再開している。野球場は上陸したGHQによって接収されていたものの、終戦わずか2か月で早稲田、慶應のOBによる「オール早慶戦」が開催され、野球は息を吹き返した。
翌年の
昭和21(1946)年には東京六大学野球リーグとプロ野球の公式戦が再開し、さらに戦前からの懸案であった野球界の自治的性格も取り戻された。
こうした野球の早期復活は野球関係者の努力というより、終戦後の日本に対して強い影響力をもったアメリカの意向が大きかった。彼らは国技でもある野球を日本に浸透させ、自国に対する警戒心を和らげようとしたのだろう。事実、戦後に作られた野球に関する規則や組織は、その成立を
GHQ部局の一つ、CIE(民間情報教育局)が主導している。
そのためか、今日まで野球関係者の「戦争への協力的な姿勢」が問われることはほとんどなかった。しかし、戦時下の行動を見ると、彼らは「戦争協力者」と呼ばれても仕方のない行為をしている。同じような立場で、やむなく戦争に協力した文化人たちは、戦後容赦ない批判にさらされた。
要するに、野球を戦時下で「敵性スポーツ」として弾圧された「被害者」としてだけ捉えることはできない。競技を守るためとはいえ、野球界が自発的に戦時体制に組み込まれていった側面があるのである。
しかし本論で言いたいのは、「戦争に協力した関係者たちを責めるべきだ」ということではない。関係者たちも、最初は「野球が好きだから」「野球を守りたいから」と戦時体制にやむなく迎合しただけなのだろう。しかし、
結果として野球を愛する選手の追放という悲劇を生み出している。
当時の野球関係者たちが「悪」だった、とは思わない。それでも、単に戦争で犠牲になった選手たちに焦点を当てるだけではなく、積極的に政府の方針に迎合していき、ついには選手の追放にまで至ってしまったという事実を、我々は直視しなければならない。
<文/齊藤颯人>