野球関係者たちは必死に「戦時体制における野球の貢献」を説いたわけだが、
昭和16(1941)年の太平洋戦争開戦以降は、「敵性スポーツ」として弾圧されたといってよい。ただ、事ここに至っても、
野球関係者たちは野球を弾圧してくる国家体制そのものを批判することはなかった。
結果、昭和17(1942)年には当時人気を博していた東京六大学リーグが中断に追い込まれ、甲子園も開催されなくなった。翌年には徴兵令の学生猶予がなくなったため、プロ野球選手ともども戦地へ出征し、その大半が亡くなっている。
この時期には国粋主義者だけではなく一般民衆の間でも「野球は敵性スポーツ」という認識が共有され、社会全体から厳しい目が注がれた。野球関係者たちもこうした批判を予見し、太平洋戦争開戦前の時点で野球の専門用語を一部日本語表記に改めていた。例えば、「ストライク」が「よし」と言い換えられたのである。
しかし、この言い換えに関しても具体的な政府からの命令があったわけではなく、あくまで
野球関係者による自主的な規制であったことには注目したい。「野球を守るため」といえば聞こえはいいが、結果だけを見ればむしろ積極的に戦時体制に寄与していったともいえるのである。
加えて、野球関係者たちが実際にプレーする選手を守れなかった例もある。
戦前の巨人で活躍したロシア系名投手の
ヴィクトル・スタルヒンは、開戦前の時点で巨人の首脳陣から「
須田博」という日本風の名前への改名を要求されている。スタルヒンは出身国のロシアが革命によって崩壊し、子どもの頃に日本に亡命した無国籍人となっていた。その後長らく日本で暮らしていたが、彼は
「外見が日本人らしくない」という理由で望んでも日本国籍が与えられていなかったのだ。
そのため、スタルヒンには日本の野球界を除いて居場所がなく、彼は当然ながら改名を受け入れた。その後、そうまでして野球を続けたがっていたスタルヒンを、
巨人首脳陣は容赦なくチームから追放した。もともと、スタルヒンの入団は
巨人発足時に首脳陣が特高警察を動員してまでプロ入りを望まない彼を恫喝し、強引に入団させた経緯があったにもかかわらずだ。
これも「野球界のために、一人の犠牲は仕方なかった」と反論されるかもしれない。野球関係者が政府の方針に結果として加担しているのは明らかであり、
選手一人を自主的に追放するような彼らを「野球のために戦った」と手放しに称賛してもよいのだろうか。
結局、強引な手段を使ってでも野球を続けようとしたプロ野球関係者だったが、戦局の悪化に伴い昭和19(1944)年にはリーグ戦の一時休止が決定した。