日本では圧倒的少数派のキリスト教だが、宗教として一目置かれる傾向が強いのは最大多数派の仏教よりもキリスト教だ。この傾向は信者や教会組織だけではなく、新聞報道における事件や容疑者の扱いにも表れている。
たとえば、仏教者が容疑者となった性犯罪を報じる新聞記事では、容疑を否認しているという警察発表が記事になることはあっても、
「うちの住職に限ってそんなことをするはずがない!」などという檀家による擁護の声は見られない。
例外は、山形新聞2016.12.08〈天童、南陽署 長谷川村山市議を逮捕 少女買春疑い、容疑は否認〉くらいだ。寺の副住職でもあった市議による少女買春事件で、「まさかあの人が」「信じられない」「間違いであってほしい」「(児童買春を)するような人には思えない」といった檀家たちの声も報じている。しかしこれも、擁護というよりは「驚きの声(否定はしない)」といった感が強い。
これ以外では、仏教、神道、祈祷・占い全てについて、新聞記事の内容は警察発表が中心。独自取材によって擁護的な声を拾い「両論併記」するなどということはない。そんじょそこらの性犯罪容疑者と同じ扱いだ。
前出の産経新聞2004.04.08〈住職が下着ドロ 八尾署逮捕 とんだお勤め檀家から帰りに1枚〉や同2011.10.03〈僧侶、袈裟まくり下半身ご開帳 大阪府警、容疑で逮捕〉は、別の意味でも象徴的だ。「とんだお勤め」「御開帳」などと、一般紙でありながらスポーツ紙や夕刊紙のように実に生き生きとした下世話な見出しで、容疑者の行為をあざ笑っている(産経新聞は他のテーマでも常にそういう傾向があるが)。仏教者の性犯罪など、驚きや怒りではなくもはや嘲笑の対象といわんばかりである。こうした話題性や有名寺院がらみでもない限り、仏教者の性犯罪な通常、さして大きく報じられてもいない。
ところがキリスト者が容疑者となった性犯罪では、政治家など一般社会への影響が大きい地位にある宗教者や有名な教会の事件でなくても、地元の話題として大きく、繰り返し報じられる。意外なニュースあるいは重大な問題として扱われるということだ。擁護的な信者の声や容疑者の主張も、必ずというわけではないが「
両論併記」されることが少なくない。容疑者であるキリスト者が堂々と、そして強く無罪を主張するからという事情もあるだろうが。
一般の人々の目からは形骸化して見える仏教より、宗教としての真剣さやコミュニティの濃密さが比較的強く感じられるキリスト教が、人々から一目置かれるのは当然だ。むしろ宗教としては立派とも言えるかもしれない。そこに生まれる「精神的密室感」「聖域感」に、信者だけではなくメディアや読者も巻き込まれている。
キリスト教についてだけは警察発表に頼らず自力取材にも力を入れ、ゆえに意図的でないにしても擁護的な声も紹介され、不起訴や無罪の場合もその結果がそれなりに報じられる。第三者がこれを見れば、「もしかしたら冤罪の可能性もあるのかも」と考えたくもなる。
もちろんその可能性を度外視すべきではないのだが、それを言うならロリコン僧侶についてだって同じだ。檀家や宗派が「うちの寺の住職がSNSで中学生をつかまえて買春なんて、絶対にあるはずがない!」と声をあげ、新聞が報じなければおかしい。
信者や教会組織だけではなく外部からも一目置かれる空気があるという点でも、キリスト教世界は被害者にとって不利な状況にある。たとえ本当に被害が存在していたとしても、発覚、解消、回復のハードルが高い。
キリスト教の「聖域感」は、日本においても見出すことができるが、それは「キリスト教だから」ではない。密室性の高さや、擁護してくれる信者や組織、なんとなく世間から一目置かれる雰囲気があれば、宗教を問わず成り立ってしまう。
今回は刑事事件の新聞報道をカウントしただけで、民事裁判のみの事件や、表沙汰になっていない事件はカウントしていない。摂理のように日本では刑事事件化していないケースもあるし、性犯罪は宗教の種類を問わず至る所に隠されている。筆者自身、被害者等の事情を考慮して記事にしていない事例がキリスト教以外のカルト集団関連で複数ある。性犯罪以外の児童虐待もある。
しかしカルト集団は得てしてクレーマー集団でもあり、「聖域感」ではなく抗議を恐れるがゆえにメディアが萎縮する面もある。大手メディアの中には未だに、「幸福の科学を怒らせるような報道をするとFAX攻撃が来るのではないか」と本気で恐れている人々もいる。
カルト集団は、集団や指導者に対する信者たちの信仰や依存心、利害関係等が強く、キリスト教以上に精神的密室性が高いケースもある。内部での性犯罪は刑事事件化も表面化もしにくい。全体としては形骸化しているように見える仏教の世界ですら、宗教的な濃密さや密室性が強い団体もあるだろう。問題が発覚していないだけというケースがありうることは、宗教の種類を問わず容易に想像できる。
だから、ここで紹介した事例や傾向をキリスト教やカトリックを批判する材料にするだけでは不十分だ。キリスト教は飽くまでもこの問題の象徴的モデルにすぎない。これを理解することで、キリスト教以外に対する問題意識を社会的にも各宗教の内部においても高める必要がある。
「カルト問題」への取り組みにおいて「カルト」と呼ぶか否かの判断基準は「人権侵害」の有無だ。そもそも宗教に限定された言葉でもないし、占い師などのような個人の問題も除外しない。伝統の有無も宗教上の正統・異端も、少数派か多数派かも関係がない。
人権を侵害する宗教者や宗教集団は、種類を問わず全て社会の害悪である。キリスト教を特別視すべきではないのと同様に、キリスト教批判だけに特化すべきでもない。
<取材・文/藤倉善郎>