繰り返される「反復」と「ずれ」、または歴史を語ることの倫理――吉田喜重『贖罪 ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争』を読む
先述のように、複数の語り手が同じ人物や時代を語ることで、どうしてもそこには「反復」が生まれる。それはたとえば、戦前のドイツを代表する映画『カリガリ博士』(1920年)の公開当時の記憶や、ヒトラーの台頭時に彼の演説に触れた記憶であるわけだが、本作における「反復」でもっとも強い印象を残すのは、ヘスが幼少期にアレクサンドリアで出会った、幼い兄妹の存在である。この兄妹は旧約聖書の『ルツ記』におけるあるイメージと重なったことがまず語られるのだが、やがて妻となるイルゼと出会った際において、あるいは、ヘスが自らの命を絶つ瞬間にふたたび脳裏に浮かんだことが語られる。
その兄妹のイメージについては、おそらくはヘスの、ひいては本書に触れた私たちの回想のたびに、根本的な「ずれ」が生じるということはないだろう。しかし、記憶そのものが不確かなものである以上、回想のたびにその微細な部分に、少しずつ「ずれ」が生じるということもまた明白であるはずだ。重要なのは、その「ずれ」をなくすことではない。むしろその「ずれ」を認識すること、記憶の不確かさを認識することにあるのだ。
「ずれ」とは戦争にかかわらず、すべての歴史の継承において存在している。本作におけるさまざまな語りは、歴史の語りのひとつの限界を示すとともに、一つひとつの「個」によって、単なる情報処理のみではない固有の経験として歴史を紡ぎゆくことの、ひとつの肯定ともなりうるのではないだろうか。
吉田は先述の往復書簡において、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』を引き合いに、以下のようにも述べている。
「今生きていく現在、その瞬間はただ時間が流れているだけで、それが意味することがわからない。そして、過ぎ去ってしまった過去になって、ようやくその意味を思い返すことによって、その意味が分かり、そして人間は生きていけるのだと思います」(※4)
『独ソ戦』がベストセラーになり、あらためてナチスドイツにふたたび光が当たりつつある中、しかし、主体的にその記憶を後世に受け継いでいくためには何が必要か。
「自身の死がいつ訪れるかもしれない」と語る、87歳の吉田喜重が投げかけたこの『贖罪』という作品には、たしかにその答えが内包されている、と断言してみよう。
(※1)正確には、吉田は2008年にブラジルのオムニバス映画『ウェルカム・トゥ・サンパウロ』に参加しているが、これは短編であるため除外する。
(※2)「二人の「H」、二人の「わたし」 あるいはありえたかもしれない「手紙」」『週刊読書人 2020年5月22日号』株式会社読書人、p.1-2
(※3)『見ることのアナーキズム 吉田喜重映像論集』吉田喜重、仮面社、p.8
(※4) 「二人の「H」、二人の「わたし」 あるいはありえたかもしれない「手紙」」、p.2
<文/若林良>
1990年生まれ。映画批評/ライター。ドキュメンタリーマガジン「neoneo」編集委員。「DANRO」「週刊現代」「週刊朝日」「ヱクリヲ」「STUDIO VOICE」などに執筆。批評やクリエイターへのインタビューを中心に行うかたわら、東京ドキュメンタリー映画祭の運営にも参画する。