繰り返される「反復」と「ずれ」、または歴史を語ることの倫理――吉田喜重『贖罪 ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争』を読む

4つのパートそれぞれで描かれたもの

 本書は4つのパートで構成されている。順を追って説明すると、「何故わたしはルドルフ・ヘスに興味を持つようになったのか」では日本が舞台となり、戦時期を中心とした吉田――いや、語り手となる「わたし」の幼少期、また戦時中にヘスを新聞の報道で知り、それから何十年もの歳月を経て、再び彼に関心を持つようになったことが描かれる。  作品の半分以上を占める「『わたし』という主語を欠落させたルドルフ・ヘス自身による奇妙な手記」は、シュパンダウ刑務所で「第七号」という名をあてられたヘスが、おそらくは1970年代以降に書き残したという体裁のもとで綴られた手記であり、エジプト・アレクサンドリアにおける少年時代の回想から第一次世界大戦への従軍、および恩師・地政学者カール・ハウスホーファーとの出会い、後に自身が従事する「H」――アドルフ・ヒトラーを指すであろうことは明白とされながらも、明確には名指されない――との出会い、そしてナチスが世間を熱狂させたのちの第二次世界大戦の勃発をへて、ヘスがイギリスへ単独飛行するまでが描かれる。  いっぽう、「アルブレヒト・ハウスホーファーによる宛名のない奇妙な、それでいて真摯な手記、あるいは遺書」は、カール・ハウスホーファーの息子であり、ヒトラーの暗殺計画に加担したことからゲシュタポに捜索される身となったアルブレヒトが潜伏中に書いた手記という体裁をとっており、彼の視点から、ナチスにおけるヘスの行動が振り返られていく。そしてこのふたつの手記については、しばしば「筆者による注」が挿入され、基本的な情報の補足、またこれらの手記が偽書である可能性の言及などがなされる。  「ルドルフ・ヘスによる最後の告白、あるいは遺言」は、90歳を超えたヘスが自らの命を絶つまでの告白が語られるが、これはあらかじめ筆者によって明確な虚構であること――筆者が晩年のヘスの心情を類推して描いたものであること――が付言されている。  このうち、「ルドルフ・ヘス自身による奇妙な手記」「真摯な手記、あるいは遺書」における筆致はきわめて禁欲的であり、そこで描かれるのは基本的に、彼らが生きた時代の社会史である。個人としての強い感情の発露はほとんどなく、書かれる内容もまた、史実から乖離したものではない。むしろ、読み返しながら歴史本などで精査した限りでも、その内容があまりに史実に忠実であることに、私はややとまどいを覚えたほどであった。  また、ヘスとアルブレヒトは同時期のドイツを生きていたこともあって、その回想の内容はしばしば重複し、ヘス個人の回想としても、同じような記憶が重ねがさね語られる。  先述の「反復」と「ずれ」とは、おおむねこのような構成についての指摘ではあるが、ではそれらには、どのような意味があるのだろうか。

見ること、語ることの錯覚

 ここでようやく核心に入る。以下は第一章「何故わたしはルドルフ・ヘスに興味を持つようになったのか」からの抜粋である。ここでは老境を迎えた吉田――いや語り手である「わたし」による、少年時代を振り返っての回想が描かれる。 「偽らざる現実であるイメージも、遠く時間が過ぎ去ってみれば、記憶のスクリーンにかすかに映し出される映像のように、わたしの脳裏にはかなく漂っているにすぎない。事実、半世紀以上も過ぎたいま、あの戦後の過酷な状況を記録した映画のフィルムを眼にすると、それは生なましい現実というより、たしかにその時代を模倣しながら、あえて再現しようとして意図的に演じているように感じられてならなかった。それは一回限りのものである現実を思い起こし、追想するとき、すでにその現実は言葉でしか語られないことを意味しており、たとえ戦後の生なましい現実を記録した映像をたしかにこの眼で見ているにしても、その過ぎ去った時間をいま改めて生きることができない以上、それは語られ、そして演じられている虚構というほかはなかったのだろう」(p.53-54)  「一回きり」である現実は、もはや再現することはできない。当時のアルバムやフィルムに触れたとしても、すべての感覚を動員させて当時を味わうことができない以上、それは「フィクションとしての現実」を後押しする以上のものではない。  これは上記の「わたし」による追憶を、私なりにかみ砕いて要約したものだが、たとえば、これが引用文と「異なった」ものであることは明白であろう。『歴史とは何か』におけるE・H・カーの議論を引くまでもなく、歴史の語りにはどうしても語り手の主観が入り込む。そのため、同じことがらを描くとしても、それは完全なコピーとはなりえない。  そもそも、本作において第二章以降も語り手となる「筆者」は透明な存在、あくまで事実や補足情報を提示するのみの黒子にはなりえていない。むしろ、そうした選択肢を放棄していると言っていいだろう。たとえば、文中で「筆者」はベルリンの国立公文書館やアメリカの国立公文書記録管理局に足を運び、ヘスの資料調査に当たったと語るが、これは四方田犬彦との本作をめぐる往復書簡において、吉田自身が虚構であると語っている(※2)。  こうした虚構性は語り手としての「筆者」の個を強調するというよりも、むしろ語りや知覚の錯覚性――言いかえれば欺瞞性に立脚したものであろう。  吉田は著書『見ることのアナーキズム』(仮面社)の冒頭において、「見るという行為はそれ自体どこまで行っても見果てることのない錯覚の延長であり、その構造を支えているものは自己欺瞞の論理であるかもしれない」(※3)と語っている。この本は1971年、当時30代の吉田によって書かれたものであるが、吉田ほど自身の論理と、その作品の作法が一致した人物もまた稀ではあるだろう。  つまり、どのような形で歴史や事象を描き、またそれに触れたとしても、そこに「ずれ」が入り込むことは不可避であるため、むしろその「ずれ」をはっきりと知覚させる形で描くことが、吉田によっての作家的矜持、言い換えれば倫理であると言えるのではないだろうか。  そして、その「ずれ」には事実を誤認させるのみではない、確かな正の効果も存在する。
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「ずれ」から生まれるもの
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