3:工藤遥や伊藤健太郎をはじめとする役者たちの輝き、そして奇跡と言えるラストシーン
本作は役者の魅力もとてつもなく大きい。小寺さんを演じたのは、元モーニング娘。の工藤遥。4ヶ月をかけて猛特訓したという彼女のボルダリングの見せ場は、もはや熟練したものにしか見えない。何より、「壁を一生懸命のぼっている姿がかわいらしくてずっと見たくなる」という、ある意味でマンガ的でフィクショナルな存在の女の子を、工藤遥の“透明感”と“純粋さ”が見事に体現しているのだ。
©2020「のぼる小寺さん」製作委員会
小寺さんを見続けている卓球部員の男の子を演じたのは、『惡の華』(2019)でも思春期の男子に“憑依”していた伊藤健太郎。見た目は十分にオトナでも、想いを寄せている女の子とうまく話せずに挙動不審になっている様はウブな少年そのもので、これまたかわいくって仕方がない。彼のことも「がんばれ!」と心から応援できるだろう。
その他、“恋のライバル”となる実力派のボルダリング部員を演じた鈴木仁、不登校気味のギャルっぽい女の子の吉川愛、写真に興味津々だけどその趣味をおおっぴらに肯定できないでいる女の子の小野花梨と、若手の役者たちそれぞれががこれ以上のないハマりっぷりだ。誰もがキャラクターとしての彼ら彼女らのことを大好きになるだろうし、役者たちそれぞれの活躍を追い続けたくなるだろう。
その若手の役者たちのアンサンブル、それぞれの魅力が極に達するのがラストシーンだ。もちろんネタバレになるので具体的には書けないのだが、そのシチュエーション、表情、目の動き、一挙一動にいたるまで、もう涙を流しつつガッツポーズをしてしまった(実話)ほどの、奇跡に溢れていたのだから。
©2020「のぼる小寺さん」製作委員会
また、この『のぼる小寺さん』は「映画にした」ことの意義そのものを強く感じる作品だ。なぜなら映画は「見ることしかできない」媒体であり、その観客の視点が劇中の「がんばっている女の子を見ることしかしていない」卓球部員の男の子の気持ちとシンクロしているのだから。そしてラストシーンでは、その「見ることがしかできない」ことが、最大の感動を呼ぶ。それもまた、若手の役者が最高の輝きを放っているからこその奇跡だ。
まとめ:「がんばること」を肯定する物語がいま必要な理由
本作で描かれるボルダリングは、東京2020オリンピックの追加種目であった。競技人口もファンも増えつつあり、日本からも優秀な選手が出場予定だったのだが、ご存知の通り新型コロナウイルスの影響によりオリンピックそのものが延期になってしまった。オリンピック直前で『のぼる小寺さん』を公開するというタイミングは、映画そのもののプロモーションになるはずだったのだ。
もちろんそれは残念ではあるのだが、ここで掲げた作品の素晴らしさは何ら損なわれるものではないし、ボルダリングという競技そのものが魅力的に映るということもまったく変わってはいない。ボルダリングの発展と認知拡大という意味においても、ぜひ本作を劇場で見てほしいと強く願うのだ。
©2020「のぼる小寺さん」製作委員会
また、いまは青春の当事者である若者たちが、普通の部活動ですら行うのが難しいという状況だ。こんな時だからこそ、がんばっている女の子の姿を通じて、青春の意義を高らかに謳いあげ、がんばることをそのものを肯定する『のぼる小寺さん』は、若者にとっての大きな希望にもなりうるのではないか。部活動や好きなことをがんばれないという場合であっても、この映画は「がんばっている誰かを応援する」ことも、また大きな意義があると教えてくれる。だからこそ、いま観てほしい映画なのだ。
<文/ヒナタカ>