『日本国紀』だけじゃない! 書店にはびこる「エセ歴史本」に惑わされないために

どうしたらエセ歴史本を読まずに済むのか

 八切の例は「エセ歴史本」の問題を指摘するために取り上げたものだが、昨今発売される書籍にこのレベルでデタラメなものは流石に少ない。『日本国紀』も八切史観に比べれば随分と穏当な内容になっていると感じられる。しかし、実態としては八切が世に送り出した「エセ歴史本」と現代のそれは構図が似通っており、この本を反面教師として回避することはできるだろう。  八切と現代の「エセ歴史本」に共通するのは、歴史の専門家ではない一般の人たちが惹かれるような「強いメッセージ」が込められていることだ。例えば、八切は「意外」という言葉を使い、「あなたたちが知っていることは間違っているんですよ」と暗に揺さぶりをかけている。すると、私たちはどうしても「えっ、一体どういうことなんだろう」と気になり、本を手に取ってしまう。そうなれば最後、彼の文才に魅了されてすっかり信じ込んでしまうという構図だ。  この手法は、現代でも非常によく用いられている。例えば「教科書は教えてくれない〇〇」や「誰も知らない〇〇」、「ウソだらけの〇〇」といったタイトルをつけ、読者を引き込むのは常套手段だ。  つまり、私たちが歴史本を手に取る際には「不必要に強いことばを使っていないか」ということを一種の判断基準にしてもいいかもしれない。また、誠実な歴史研究の成果として出てくる説というのは得てして地味なものなので、上記の「上杉謙信女性説」のように「内容があまりに斬新すぎやしないか」という視点を持つのも有効だ。もちろん、これらの条件に当てはまっても信頼できる歴史本があってもおかしくはない。  他にも、「先行研究などをしっかり踏まえているか」「参考資料のリストや註などは充実しているか」「信頼できる版元か(大手だから良いというわけではない)」といったあたりに気を配っていくと、エセ歴史本を手に取ることはなくなるかもしれない。  しかし、一方で一般読者がよく勘違いするのは「大学教授や偉人の子孫、あるいは当事者の書く本だから信頼できる」というように、著者の「肩書」で本を選べばいいのだ、ということだ。結論から言えば、この方法は必ずしも推奨できない。  なぜなら、上記の肩書を悪用して「エセ歴史本」を仕上げる著者もいるからだ。大学教授の書く本とあれば、一定の権威性を帯びる。それを悪用するのは非常に簡単だ。また、偉人の子孫や事件の当事者は、自分の書く本によってセルフプロデュースを図る例が少なくない。つまり、意図的に歴史の事実を自分に都合よく発信することで、何らかの利益を得ようとするのだ。彼らはある意味で一番の当事者であり、客観性をもつことが困難なのである。

面白おかしい発想は「歴史創作」で表現してくれ

 ここまでの書きぶりから、筆者が「エセ歴史本」に対して強い敵意を燃やしていることは推察できるだろう。しかし、筆者はなにも「歴史を面白おかしく語ること」を否定しているわけではないことを伝えておきたい。  「エセ歴史本」最大の問題点は、さも学術的プロセスを経て導き出された歴史の真実が書かれているかのように擬態することだ。また、これは考えすぎかもしれないが、個人的には著者の「読者はこうやって書いておけば喜ぶんだろ」という見下した考えが見え隠れするように思えてならない。歴史の学説を歪め、読者を馬鹿にしたような執筆態度が鼻につくのだ。  では、もし仮に「斬新で面白いがデタラメな歴史の解釈を思いついた」という場合、どのような形で世に発信するべきなのか。その答えは単純で、先ほど触れた八切の本職である歴史小説のように、フィクションの世界に落とし込めばよいのだ。作品自体がフィクションであることを表明していれば、織田信長を討ったのが徳川家康でも、上杉謙信が女性でも全く問題はない。なぜならそれは「歴史創作」であり、「歴史研究」ではないからだ。  もっとも、「エセ歴史本」の著者たちは、歴史創作では満たされなくなり歴史研究に手を出す例も少なくない。その営み自体に全く問題はないのだが、歴史研究の世界に足を踏み入れた以上、ぜひとも研究者としてふさわしい学問的な誠実さをもって著作に励んでほしいものだ。 <文/齊藤颯人>
上智大学出身の新卒フリーライター・サイト運営者。専攻の歴史系記事を中心に、スポーツ・旅・若手フリーランス論などの分野で執筆中。Twitter:@tojin_0115
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