『日本国紀』だけじゃない! 書店にはびこる「エセ歴史本」に惑わされないために

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hiro-ks / PIXTA(ピクスタ)

書店に山積みされる「エセ歴史本」

 皆さんは、「エセ歴史本」と言われてすぐにその実態を思い浮かべることができるだろうか。歴史を専門に研究されている方なら造作もないだろうが、ある程度専門的に歴史学を学んだ人でなければ、それは難しいかもしれない。  なぜなら、皆さんは知らず知らずのうちに「エセ歴史本」を読んでいるからだ。実際、昨今「歴史本」と呼ばれるジャンルでベストセラーになっている書籍を見てみると、驚くほどいい加減な内容であることは珍しくない。長年の歴史研究によって解き明かされてきた学問的成果を一切踏まえず、独りよがりな「真実」や「新解釈」をアピールする。こうした書籍は、もはや歴史学という学問に対する冒とく以外の何物でもない。  そして、言うまでもなく、こうした書籍が世に送り出され、あまつさえベストセラーになっている現状は看過できるものではない。とはいえ、恐らく今後も「エセ歴史本」の出版が絶たれることはないだろう。理由はシンプルで「売れるから」だ。  出版社にもこうした書籍を出さない矜持を持ってほしいものだが、出版不況の昨今に売り上げの見込めるテーマを手放すとは考えづらい。となれば、出版社側に働きかけるよりもそうした本を手に取ってしまう「読者」に警鐘を鳴らすべきだと考えた。  以下では、一見すると斬新で面白い「エセ歴史本」の特徴や、これらのデタラメな歴史本と誠実で学術的プロセスを経た歴史本を見分ける方法などを解説していきたい。

「斬新で面白いデタラメ」というやっかいさ

 さて、「エセ歴史本」の問題点が「内容がデタラメであること」なのは分かりやすいだろう。しかし、「エセ歴史本」がもつ非常にやっかいな部分は「一見すると内容が斬新で、かつ本として面白い」という点だと考える。  具体例を挙げよう。昭和の時代に歴史小説家として活躍した八切止夫という人物がいる。彼は小説家でありながら一方で歴史家としても活動しており、「八切史観」と呼ばれる独自の歴史観を展開していた。  その中で、まさに本記事で取り上げているような「エセ歴史本」の分かりやすい著作として、彼の書く『八切意外史』というシリーズものがある。彼はその中で「上杉謙信は女性だった」、「織田信長を殺したのは明智光秀ではない」など、これまでの通説を大きく覆すような主張を繰り返している。まさに「意外史」というべき内容だ。  加えて、八切は内容がさも歴史研究の成果であるかのように論拠を提示している。例えば、「上杉謙信女性説」に関して、彼は「スペインで発見された文書に『上杉景勝の叔母(謙信のこと)』という文字を見つけた」「謙信の死因は大虫であり、これは月経の隠語だった」「当時民衆の間で流行していた詩に、謙信が女性であったことを裏付ける歌詞がある」などの点を論拠とした。  しかしながら、これらの論拠は「本物」の歴史家によってすべて否定されている。そもそも、上杉謙信を女性だと主張するなら、それを証明する有力かつ客観的な証拠がなければならない。が、八切の主張を支える論拠は客観的に証明することが困難なものばかりであり、当然ながら昨今の歴史学会では相手にされていない。  ところが、「あの上杉謙信が女性」というセンセーショナルな響きと、小説家らしい説得力と起伏のある文章で彼の説は広まっていったという歴史がある。もし、彼の発想に意外性がなく、かつ文章が全く面白くなければ、これほど有名になることはなかっただろう。  また、『八切意外史』ほどの“トンデモ”ではないが、小説家の百田尚樹氏が描き、ベストセラーにもなった『日本国紀』もエセ歴史本と呼べるかもしれない。すでに各種報道でも「Wikipedia」などで得たネット上の不正確な情報を転用・参照していた可能性が指摘されているほか、ベストセラー『応仁の乱』の著者であり、日本中世史を専門とする歴史家・呉座勇一氏もたびたび同書の内容を批判している。記事の構成上簡単に批判の論点を要約すると、「他人の説を参照している部分を明示しない上、歴史観が古い」というのが主張であり、指摘の内容は全面的に同意できるものだ。  それでも、最新の学説を反映した歴史本より『日本国紀』が売れてしまうのが今の歴史本業界であり、学術的営みを経て解明された研究成果が一般人のもとへ届いていないというのが実情である。
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どうしたらエセ歴史本を読まずに済むのか
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