ドイツが直面する、「ナチス時代を克服すること」の難しさ
新型コロナウイルスへの対応として政府の発令する「緊急事態宣言」が5月末に解除された。新規感染者の増加も気になるところだが、ともあれ映画館が営業再開されたので、さっそく観に行ってきた。
観たのは、6月6日に公開された『お名前はアドルフ?』と、6月12日に公開された『コリーニ事件』というドイツ映画二本。それぞれ主題もテイストも対照的な作品だが、両者はナチス時代についての「過去の克服」という、ドイツ固有の問題を扱っているという点で共通している。
ナチス政権の下に、ドイツ人は様々な戦争犯罪、人道に対する罪に加担してきた。そうした負の過去とどのように向き合うか。この問いには戦後75年たった今もなお、決着はついていない。前者はそれについてトリッキーな方法でエンターテイメントに昇華し、後者は正攻法で取り組んだ作品だ。
2010年のフランスの舞台『名前』をモデルにしたコメディ映画。元々が舞台であるゆえか、ほぼすべての場面はステファンとエリザベスの家で起きた一晩の出来事に集約されている。会食に招かれたエリザベスの弟が新しく誕生する自分の息子に「アドルフ」と名付けるつもりだと言い出したのを発端として、激烈な論争が始まる。
おとな5人がただただ喧嘩をするだけの90分なのだが、次々と新たな展開が生じるので、飽きることはない。コメディらしく、途中アンジャッシュのすれ違いコント的な演出もある。
ドイツではヒトラーという姓は絶滅状態にあるが、アドルフという名前については激減してはいるものの禁止されているわけではない。「高貴な狼」に由来するこの名前はゲルマン語圏においては一般的な名前で、(事実上の)神聖ローマ皇帝アドルフ・フォン・ナッサウや、作中でも言及されたアディダスの創業者アドルフ・ダスラーなど著名人も多い。
ところが、「あの」アドルフがいるというだけで、この伝統的な名前を命名することはスキャンダラスなものになってしまう。ドイツでは当たり前となっているこの感覚は、果たして正常なのか、過剰なものなのか。
『お名前はアドルフ?』では、この「過去の克服」にまつわる問題について、2018年(本国での公開年)においてアクチュアルな議題である移民・難民の問題が絡んでくる。アドルフという名づけは、過去に対する責任への考え方だけではなく、現在の移民や難民にどう向き合うのかにも関わってくる。けして単純な歴史の話ではないのだ。
とはいっても、この映画自体はこうした歴史の問題をけして深刻に扱っているわけではない。アドルフという名づけを厳しく非難する文学教授もカリカチュアライズされ、皮肉っぽく描かれている。「過去の克服」の話題を、ネオナチへの加担を徹底的に避けながら、現代に生きるドイツ人の痛いところをつくようなブラック・ユーモアとして昇華させたことが、この映画の醍醐味かもしれない。
ドイツの推理作家フェルディナント・フォン・シーラッハの小説を原作とする法廷劇である。日本と同様、ドイツでも推理小説(Krimi)は読まれているが、いわゆる本格ミステリは翻訳が主で、ドイツ人が書くものは、日本では社会派ミステリに分類されるような犯罪小説・サスペンスが多い。
シーラッハはその代表格で、トリックに重きを置くというより、現役弁護士というステータスを生かし、裁判や法そのものが主題となるようなミステリを書いているのが特徴的だ。
ブラック・ユーモアをまき散らしながら、きわめて狭い空間軸・時間軸の中で物語が展開していく『お名前はアドルフ』とは対照的に、『コリーニ事件』は空間軸・時間軸ともに広範囲にわたっており、内容もシリアスだ。犯罪の動機が過去に関わり、動機の追及がこの社会の暗部を明るみに出すという点では、本邦の作品では松本清張『砂の器』に近いだろうか。動機それ自体は180度異なっているものの、映画の後半のクライマックスで回想シーンに切り替わったときは、あ、これは要するに『宿命』が流れるシーンだなと思ってしまった。
実は『コリーニ事件』は、回想シーンのあとにも、もう一波乱あるのだが、それに関連して国民社会主義政権に従った法律家たちの、戦後ドイツでの処遇について簡単に触れておきたい。
「アドルフ」という名前を子どもにつけるなんて
被告が殺人を犯した動機を探る『コリーニ事件』
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