コロナ後を拓く思想。宇沢弘文と中村哲から継承すべきもの<佐々木実氏>

世界で最も早く地球温暖化問題に取り組む

―― コロナ危機は経済格差による社会の分断や環境の破壊といった資本主義の矛盾や欠陥が指摘されている最中にやってきました。国連は5年前から、SDGs(持続可能な開発目標)を唱えるようになっています。 佐々木:それを考えると、宇沢が「社会的共通資本」の概念を50年も前に着想していた事実は特筆に値します。  宇沢のアメリカでの教え子にノーベル経済学賞受賞者のジョセフ・スティグリッツがいます。彼にインタビューした際、興味深い解説をしてくれました。新自由主義の教祖ミルトン・フリードマンは、シカゴ大学時代の宇沢の同僚であり手強い論敵だったのですが、スティグリッツは、フリードマンらが影響力を持ち始めた1970年代半ばからリーマン・ショックが起きる2008年までを「Bad period(悪い時代)」と呼び、宇沢の立ち位置をこう説明したのです。  「この時期、経済学界ではヒロ(宇沢の愛称)が常に強い関心を寄せていた“不平等”や“不均衡”や“市場の外部性”の問題はあまり注目されることがありませんでした。経済学の主流派はみんな“市場万能論”に染まってましたから。ヒロが成し遂げた功績にふさわしい注目を集めなかった理由は、意外に単純です。つまり、『(経済的な)危機など決して起こるはずがない』と信じ込んでいる楽観的な経済学者たちの輪の中に、ヒロが決して入ろうとしなかったからなのですよ」 ―― フリードマンが唱えた新自由主義が資本主義の危機を考慮しない楽観的な経済学だったのに対して、宇沢は資本主義に内在する危機を見据え、社会的共通資本の経済学を築いたわけですね。そのきっかけは何だったのでしょうか。 佐々木:アメリカで1、2を争うほどの数理経済学者だった宇沢は、不惑を迎える1968年に突然、帰国しました。アメリカの経済学者はみな驚き、論敵のフリードマンでさえ思いとどまるよう宇沢を説得したほどでした。ベトナム戦争が帰国を促したといわれていますが、実際、シカゴ大学では反戦運動に関わっていました。一方、宇沢が社会的共通資本を着想する直接のきっかけは、日本で社会問題化していた公害でした。水俣病をはじめとする公害病や地域開発に伴う環境破壊、『自動車の社会的費用』(岩波新書)で取り組んだ都市問題など、いわば高度経済成長の陰で起きている出来事に目を向けていました。  いま振り返れば、新たな環境経済学、公共経済学を開拓したといえますが、戦争や環境破壊という、人類が直面する危機を現実の中でとらえ、自分自身が実際にコミットしながら、新たな経済学を打ち立てようと格闘していたのです。そのため、宇沢経済学は古びるどころか、コロナ危機によって再び呼び出される状況になっているのだと思います。 ―― 専門領域が異なる中村哲さんと思想的に共鳴したのも、人類の問題に真正面から向き合っていたからということになるでしょうか。 佐々木:2013年に出版された『天、共に在り』の「はじめに」で、中村氏がこんなことを言っています。  〈かつて自著の中で、『現地には、アジア世界の抱える全ての矛盾と苦悩がある』と繰り返して述べてきました。でも、ここに至って、地球温暖化による砂漠化という現実に遭遇し、遠いアフガニスタンのかかえる問題が、実は「戦争と平和」と共に「環境問題」という、日本の私たちに共通する課題として浮き彫りにされたような気がします〉  宇沢はアメリカ経済学界でかつてないほど評価された日本人でしたが、超大国アメリカが弱小国ベトナムを攻撃していることに憤激してアメリカを去りました。帰国後は、全国の公害被害の現場をたずね歩き、公害を分析するために社会的共通資本を考案した。宇沢は30年前に地球温暖化問題の研究も始めており、世界で最も早く地球温暖化問題に取り組んだ経済学者の一人でもありました。中村哲氏が挙げた「戦争と平和」「環境問題」は、宇沢が取り組んだテーマでもあったわけです。

国家権力の肥大化とどう向きあうか

―― 宇沢の社会的共通資本のポイントは、国家主導の考え方ではないということだと思います。新自由主義者が唱える規制緩和や民営化はさまざまな問題を惹き起こしましたが、しかし一方で、社会的共通資本の管理を国家が一手に引き受ければ、今度は国家権力の肥大化という問題を招く危険があるのではないでしょうか。 佐々木:コロナ危機で経済への国家介入が大規模に行われようとしているいま、それは非常に重要なポイントですね。宇沢は次のように強調しています。  〈社会的共通資本の管理について、一つ重要な点にふれておく必要がある。社会的共通資本は、それぞれの分野における職業的専門家によって、専門的知見にもとづき、職業的規律にしたがって管理、運営されるものであるということである。社会的共通資本の管理、運営は決して、政府によって規定された基準ないしはルール、あるいは市場的基準にしたがっておこなわれるものではない。この原則は、社会的共通資本の問題を考えるとき、基本的重要性をもつ。社会的共通資本の管理、運営は、フィデュシアリー(fiduciary)の原則にもとづいて、信託されているからである〉(『社会的共通資本』岩波新書)  実際、宇沢が霞ヶ関官僚に対峙するときの姿勢は一貫して非常に厳しかったし、「社会的共通資本の概念は意図的にあいまいさを残している」と意味深な言い方もしていました。具体的に特定の社会的共通資本を考える際、論理演繹的に答えが導き出せるものではないし、「社会=国家」「社会=自治体」といった短絡的な理解ではだめだということです。「Social Distancing(社会的距離)」が新たな社会ルールとなりましたが、宇沢が問い続けたのはまさに自由主義経済における「Social」の意味についてでした。1930年代の世界大恐慌の際、全体主義が勃興するなかで自由主義者に突きつけられた難題でもあります。 ―― パンデミックが招いた経済危機によって、社会的共通資本の重要性を再認識せざるをえない状況になっています。社会的共通資本の考えを、コロナ後の社会にどのように活かすべきでしょうか。 佐々木:話は戻りますが、私が知るかぎり一度だけ、中村哲と宇沢弘文が言葉を交わす機会がありました。2006年11月、宇沢がセンター長をしていた同志社大学社会的共通資本研究センターが主催したシンポジウムに中村哲医師が招かれたときです。私は当時、同センターのメンバーだったのですが、残念ながら、東京で仕事があり京都でのシンポジウムには参加できませんでした。初対面の中村哲と宇沢弘文は多いに意気投合していたと聞いた覚えがありますが、いま考えると、当然だったろうと思います。  二人が別々のアプローチで実践的に取り組んで築きあげた「戦争と平和」「環境問題」の思想は、世界へ発信しうる普遍性を備えていたのではないだろうか。中村哲さんに関して多くを知っているわけではないので想像にすぎませんが、二人がきわめて近い場所に立っていたのは偶然でないように思えるのです。宇沢弘文は理論経済学者ですが、日本の戦後思想の可能性という点からも再検討されるべき人物ではないかと感じています。そして、彼の思想と経済学がコロナ後の社会を導く道標になりうることを確信しています。 (聞き手・構成 中村友哉) ささきみのる●日本経済新聞社記者を経て、95年からフリーランスのジャーナリストとして活動中。著書『市場と権力 「改革」に憑かれた経済学者の実像』(講談社)で、第45回大宅壮一ノンフィクション賞と第12回新潮ドキュメント賞をダブル受賞 <『月刊日本7月号』より>
げっかんにっぽん●Twitter ID=@GekkanNippon。「日本の自立と再生を目指す、闘う言論誌」を標榜する保守系オピニオン誌。「左右」という偏狭な枠組みに囚われない硬派な論調とスタンスで知られる。
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