自分らしく生きる女性たちにエールを送る『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』 原作にはない場面が持つ意味とは?
6月12日より、『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』が劇場公開されている。
本作は第92回アカデミー賞で、作品賞を含む6部門にノミネートされ、衣装デザイン賞を受賞。米映画レビューサイトRotten Tomatoesでは現在95%の評価を得るなど、絶賛に次ぐ絶賛で迎えられた。日本では新型コロナウイルスの感染拡大に伴い公開が延期されていたものの、結果的に全国340館という大規模公開が実現したのである。
先に結論を申し上げておこう。本作は”自分らしく生きる”ことを望む全ての女性にエールを送る、類まれな傑作であった。本作の魅力や、作品に込められた“願い”などを解説していこう。
1:“自分らしい生き方”を応援する物語
そのジョー以外の姉妹も個性豊かで、女性たちそれぞれが自身を投影することができるだろう。世話好きな性格のメグは愛する人と結婚することを望み、音楽を愛する病弱な三女のベスは恵まれない人々を助けようとし、勝気な四女のエイミーは家族を支えるためにも上流階級の男性と結婚することを目指している。
「女性の幸せの形は結婚だけじゃない」という主張がある一方で、「愛のために結婚すること」や「お金のために結婚すること」も全否定されない。しかも「女性の幸福は結婚にあるか、否か」という二項対立だけにとどまることなく、4姉妹の姿を通じて、当時の(今にも通ずる)抑圧的な男性社会の中で道を切り開こうとする女性たち、それぞれの“その人らしい生き方”を応援する物語にもなっているのだ。
また、グレタ・ガーウィグ監督は本作についてこう語っている。「女性がアーティストとして生きること、そして経済力を持つこと、それをスクリーン上で探求することは、今の自分を含む全ての女性にとって、極めて身近にあるテーマだと感じています」と。ジョーのモデルは原作者であるルイーザ・メイ・オルコットであるのだが、同時に映画監督というアーティストであるグレタ・ガーウィグでもあり、そしてアーティストを目指す全ての女性の姿でもあるのだろう。
2:時間軸を前後させる作劇、そして「物語の中の物語を描く」構造の意味とは
さらに、この2つの時間軸が交互に展開する作劇は、「物語の中の物語を描く」というメタフィクション的な構造にも寄与しているということも重要だ。
前述したように、小説家を目指す次女のジョーは、原作者のルイーザ・メイ・オルコットであり、グレタ・ガーウィグ監督の姿でもある。それをもって現代と平行して語られる過去パートを見つめると、それはジョーが出版社に持ちかけた小説の内容であり、またルイーザ・メイ・オルコットが自身の家族をモデルに書いた「若草物語」という物語そのものにも見えてこないだろうか。
そして、この「物語の中の物語を描く」というメタフィクション的な構造は、「原作者のルイーザ・メイ・オルコットが本当に書きたかった物語とは何か?」という、さらなる問いかけにまで昇華されている。ここにこそ、本作の本質があり、グレタ・ガーウィグ監督の“願い”が込められている。
実は、原作でジョーは後に結婚し、夫婦で学園を運営するという人生を歩んでいる。かつて夢見ていたはずの小説家という仕事を、諦めてしまっているのだ。グレタ・ガーウィグ監督は、「この結末をルイーザ・メイ・オルコットは書きたくはなかったのではないか」と考えたのだという。
事実、劇中で理不尽な要求を突き付けてきた編集者にジョーが反論する場面は、原作にはない場面なのである。グレタ・ガーウィグ監督は、このシーンを付け加えることで、自分の書きたい物語よりも商業的な成功を優先せざるを得なかったのであろう、ルイーザ・メイ・オルコット本人の心情にも迫った。
そして、グレタ・ガーウィグ監督がこの「若草物語」を“映画”という媒体で手がけたことの意味が、ある1点で“映像として”美しく提示されることになる。そこには書きたい物語を書けなかったであろう原作者のルイーザ・メイ・オルコットの、そしてこれまでの「若草物語」で自分の夢を諦めていたジョーというキャラクターの魂を救うかのような……同時に創作物そのものの素晴らしさをうたいあげるかのような……とてもひと言では表せない、さらなる感動的かつ多重的なメッセージへと昇華されていたのである。
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