5号線の分岐線計画から独立した6号線は、路線の在り方を大幅に変更する。従来計画の下板橋~大手町間に大手町~泉岳寺間を加え、1号線(都営浅草線)と泉岳寺~西馬込間を共用する計画に改められた。これにより、西馬込に設置予定の車両工場を2つの路線で共有できるという構想だった。
ところが、この構想に「横やり」が入る。当時、乗客の急増により激しい混雑に苦慮していた東京郊外の私鉄は、地下鉄との直通運転を行うことで都心直通を実現しようと考えていた。その中で、東武東上線から高島平を経由して6号線経由で都心に直通する計画と、東急田園都市線から池上線を経由して6号線経由で都心に直通する計画が浮上してきたのである。
ただ、この計画には問題があった。都営浅草線の線路の幅が1435mmであるのに対し、東武線と東急線の線路の幅は1067mmで、東武・東急線と直通運転を行うということになれば、6号線の線路の幅も1067mmにしなければならなくなる。そうすると、西馬込~泉岳寺間の線路の幅が異なるため、線路と車両工場を共用できなくなるのである。
しかし、それでも都心直通路線を整備することが急務であるとして、6号線は線路幅1067mmで建設することになり、泉岳寺~西馬込間の乗り入れを断念。東急池上線の桐ケ谷~泉岳寺までの区間は、別途東急が建設することになり、1号線と6号線は線路の幅が異なる路線になることになった。
ところが、東京都は東武、東急に翻弄されることになる。両社は、6号線への直通を中止し、計画を放棄してしまったのだ。東上線が直通を中止したのは、三田線のルートでは都心へやや遠回りで、地下鉄直通の効果が薄いと判断したからだと言われている。
田園都市線も都心により近い距離で行ける11号線(半蔵門線)への直通を目指すことになった。結局、6号線は1号線と設備を共用できるメリットを失ったまま、孤立した路線となり、直通を前提に建設した8両編成対応のホームも持て余すことになる。
6号線は1978(昭和53)年、都営新宿線の開業にあわせて「三田線」という愛称が付与された。その三田線が現在の形になるのは、1985(昭和60)年に地下鉄7号線(南北線)と線路を共用して三田~目黒間の延伸と東急目黒線との直通運転が決定してからのこと。地下鉄整備計画の中で。2000(平成12)年、三田線は目黒~白金高輪間を南北線と共用して延伸開業。都営地下鉄と営団地下鉄が同じ線路を共用するのは地下鉄の歴史上、初めてのことだった。
<文/枝久保達也>
鉄道ライター・都市交通史研究家。1982年、埼玉県生まれ。大手鉄道会社で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当した後、2017年に退職。鉄道記事の執筆と都市交通史の研究を中心に活動中。