確かに、感染の拡大を防ぐために、軽い安易なつながりは絶たれました。つながりは大切なものです。ただ、つながりは距離が重要であり、近すぎる距離は時に人を縛り、不自由を生みます。
たとえば、人と人が集って生まれるある場(家族、職場、地域……あらゆる場が重層的にあります)の中にいるだけで立場の安全が保証されるとき、その場の中に入るかどうかだけが目的となります。「場の中で何をするか」は問われなくなります。
むしろ、場の中で個性が突出すると場の均衡を乱すので、場の力によって意見を封殺されたり場から追い出されたりしてしまいます。そうした場が持つメカニズム自体が権威や権力や既得権益を生み出す温床でもありました。
場から脱落した人は、這い上がれない仕組みが巧妙に作られていました。正常ではない「場」の中で、人は浅いつながりを求め、人は個人としての成熟を求めなくなります。成熟しない個人が増えると、人は自分で考えなくなります。
「理解」せずに、ただ「同意」するだけの社会になります。対話の基本は、「理解」であり、「同意」の前に「理解」が先立つはずなのです。
これからの時代は、安易に場に巻き込まれず、個としての「いのち」を大切にする時代になります。場が壊れてしまうと、個は成熟を求められ、成熟へと促されるのです。
そして個人個人が、自分の生きる「いのち」を最も大切なものとして掲げて「いのち」を守り、それでいてエゴイズムにならない時代へと進んでいくでしょう。お互いが大切だと思える距離を大切にしながら、個人と個人とが新しいつながり方をする時代へと社会はうつります。
個人が成熟すれば慈悲が育ち、エゴイズムにはなりません。それぞれが個を深め、深い領域でつながりあい、心で深くつながりあっている時代。個人と個人とが物理的な離れていたとしても、共鳴し、共感し、共振するつながり。孤独であっても、孤立ではないつながり。
「個人と場との関係性が、一段違うステージに踏み出そうとしている」と自分は感じています。それは医療の世界のみならず、あらゆる世界で同時に進行していることなのでしょう。
人間の言葉では「コロナウイルス」という名前がつけられます。ただ、地球語や宇宙語の観点で言えば、「ウイルス」というのは人間の都合の名前でしかなく、すべては「いのち」なのです。
地面にも地下にも空中にも、雑草や虫と呼ばれるものにも、土の中にも水の中にも空気中にも、「いのち」の存在と働きしかない。「いのち」こそが、自然を満たしているのです。
こうした地球語のレベルに降り立って、わたしたちの社会をもう一度考え直してみる機会なのではないでしょうか。人間語でこの世界を捉えている限り、いまの事態は受け止めきれないのではないかと思います。
医療関係者は、個人の中にきらめくかけがえのない「いのち」のためにこそ、働いています。それ以外に何があるでしょうか。
「いのち」の力や働きを中心にした世界へと移っていく時代の過渡期だと思います。病院や福祉などの医療施設はもちろん、社会が「いのち」あるものになるために、自然界にある「いのち」の力こそ、芯となり軸となり核となる社会へと移行していくでしょう。
変化に対して、おそれを感じる気持ちも生まれます。それは、ある意味で「死」へのおそれと等しいものです。ただ、眠りの後に新しい1日が必ずはじまるように、変化の後には何かが死んで新しいものが必ず生まれます。
見通しがない先を歩いていくことに、現代は慣れていません。先人としての死者たちから多くのことを学びながら、見通しがない先に一条の光を見つけ、自分のいのちを輝かせて新しい未来へと一歩踏み出していく。社会と自分とが無関係に動くのではなく、自分も社会の一員として責任と覚悟を持って生きていく。
医療現場にいるひとりの弱い人間として、自分が心から生きたいと思う未来を、試行錯誤しながら創造して生きていきたい。そして、現代はまさにそうした分岐のY字路に立っているのではないでしょうか。
【いのちを芯にした あたらしいせかい 第1回】
<文・写真/稲葉俊郎>