アフターコロナで目指すべき、「いのちを芯にした、あたらしいせかい」

現代は、「経済力」や「権力」という特定の「力」が過剰になった時代

いのちイメージ1 いま、社会は大きな変化を迎えています。そのきっかけは「新型コロナウイルス」という感染症の流行です。  新型コロナウイルスは、すでに感染しているのに症状がない時期が長く、わたしたちが移動することで多くの人に感染が拡大しました(もちろん、手洗い、うがいを含めて感染防御を慎重かつ丁寧に行えば、感染は必ず防げます)。  ウイルスは自分の力だけでは生きることができません。体力が弱まっている人に感染すると、生命力を奪うようにしてウイルスの力で命を脅かされる場合もあります。弱い立場にいる人を守ることが、医療でも社会でも優先事項です。  わたしたちはあらゆる種類の「力」を持ち、それが個性にもなっています。体力、気力、免疫力、生命力。そのほかに、経済力、権力なども「力」です。受容力、共感力、持久力なども「力」です。  それぞれに「力」が備わっていて、それは違いであり多様性であり、本来そこに優劣はありません。わたしたちの社会は、ある「力」を多く持つものは渡し、ある「力」を少なく持つものは「力」を受け取るようにできています。さまざまな「力」を分け合うようにして生まれたのが、本来的な社会の成り立ちです。  それぞれの凸凹をともに集う場の中で補い合い、支え合うのが社会の役割です。たとえば、自分の畑ではトマトが多く収穫され、隣の畑ではお米が多く収穫される。また隣の町の畑ではイモが多く収穫される。余ってもしょうがないので、お互いに余ったものを渡し、足りないものを受け取るのは当然のことです。  物々交換では手間がかかるため、間に「お金」を介在させることで交換のやりとりを効率よくするようにしていく。流通も含め、そうして社会は少しずつ複雑化して重層化していきました。  現代という時代は、「経済力」や「権力」という特定の「力」が過剰になった時代なのではないでしょうか。「力」は過剰であれば、全体のバランスは必ず破綻します。そのため、分け与え共有しようとした社会の根本的な仕組みや意義が、忘れ去られようとしているのではないだろうかと思います。

人間は、本来ある場所から大きくずれてしまった

いのちイメージ2 なぜわたしたち人類は、そうした共同体をつくったのでしょうか。  それは、人間という種は自然界の中では極めて弱い存在だからです。猛獣や自然災害、虫の大群、そうしたものにおびえながら生きていた弱い存在である人間は、集い合うことで生き延びる道を選びました。  個人だけで生きるのではなく、集団だけで生きるのではなく、個と場とを共存させる道を選びました。こうしたことを実現した生き物は、人類だけです。というのも、個の利害と場や集団の利害とは、必ず衝突するため、その両立は極めて困難だからです。  個の生活を大切にしながら、共同体という場も大切にする。共同体という場も、家族や親族だけではなく、地域社会や国家など、その規模は重層的で巨大です。これほど重層的な共同体を持ちながら生きているのは人間だけです。  わたしたちはこうした複雑な仕組みを共存させながら生きていますが、その中心には「弱さ」があります。人間は「弱い」からこそ生き残るために集い、共同体をつくりました。多様な個性が様々な「力」の差を生み、「力」を分け与え分配するようにして複雑な社会を作り上げてきました。 いのちイメージ3 もちろん、医療もその一環です。ただ、現代は「弱さ」を忘れ、「強い」と錯覚して弱者を大切にしない社会をつくりました。「経済力」や「権力」が「力」のすべてだと錯覚してそのほかに無数にある「力」を疎かにした社会をつくりました。  人間すべてが「いのち」であることが前提なはずなのに、「いのち」を大切にしない社会をつくり、「いのち」は人間だけではなくあらゆる生命が等しく持つことも忘れてしまうような社会を作ってしまいました。  進路が少しずれただけで、何十年も経つとそのズレは大きなものとなり、地球船人間号は難破して遭難しそうな状況です。  新型コロナウイルスの流行をきっかけとして、社会システムの組み換えを起こす必要があるのは「本来ある場所から大きくずれてしまったから」とも考えらます。
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個としての「いのち」を大切に
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