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新型コロナウイルスが全世界規模で猛威を振るう中、真偽の疑わしい情報や明らかな誤情報、デマが飛びかうようになっている。本稿では、5月9日にTBSのテレビ番組『
新・情報7daysニュースキャスター』で1人の学者が流した“真偽の疑わしい情報”を取り上げ、そういった現状に対する注意喚起の一つとしたい。
まず、事実関係についてざっと述べておこう。TBSの生放送番組『新・情報7daysニュースキャスター』に出演した
池谷裕二・東京大学薬学部教授は、
PCR検査(新型コロナに感染しているか否かを診断する検査)の体制拡充に反対する趣旨の言説を展開し、その中で以下のようなグラフを示した。横軸に各国のPCR検査数(100万人あたり)、縦軸に各国の新型コロナによる死亡者数(同)をとった、国際比較のような格好のグラフだ。
図1.池谷教授が番組で示したグラフの1つ。横軸が各国のPCR検査数(100万人あたり)、縦軸が各国の新型コロナによる死亡者数(同)を表す。赤丸が日本。横軸と縦軸が両方とも「対数」で描かれていることに注意されたい(目盛が1つ上がるごとに値が10倍になる)画像/Twitterより
このグラフを示しながら、池谷教授はまず、次のような説明を行っている。
「
検査の数が増えれば増えるほど、状態が改善されるということは一切みられません。つまりですね、検査数が多ければ多い国ほど沢山のかたが亡くなっている、ということが分かるんですけれども」
このグラフを見ると確かに、検査数が増えるほど死亡者数も増えていくような傾向、つまり、検査数と死亡者数が比例しているかのような傾向が見える。池谷教授はさらに、グラフ内に引かれている斜めの直線について、
「
斜めの直線があって、これがまあ適正な数だろうと言われているんですけれど、日本は実は、この適正な数に一応、乗ってはいるんですね」
と発言し、日本のPCR検査数がすでに「適正な数」だけ行われているという旨の主張を行った。
以上の池谷教授の発言には、少なくとも3つの問題点がある。
1つ目の問題点は、
出典が非常に不明確だということだ。池谷教授はこのグラフを番組中におもむろに取り出したが、このグラフを誰が、何の目的で作ったのかを明らかにしなかった。グラフの右下にはデータサイト
「worldometers」のURLが示されているが、このサイトにあるのは各国の感染者数などの数字とグラフのみで、
池谷教授が示した多国間比較のグラフは見当たらない。これはどういうことなのだろうか?
2つ目の問題点は1つ目とも関連するが、
グラフ内に引かれた斜めの直線が、誰が、どのような観点で引いたものなのかがまったく説明されなかったことだ。上述した通り、池谷教授自身は「これがまあ適正な数だろうと言われている」と発言しているが、
誰が、どのような観点でその「適正な数」を決めたのかは一切説明しなかった。そしてまた、
どこの誰によって「適正な数だろうと言われている」のかも、明らかにすることはなかった。これも一体どういうことなのだろうか?
そして、3つ目の問題点は、これが本稿の主題となるものだが、
このグラフが極めて誤解を招きやすいということだ。このグラフを見、そして、池谷教授の説明をそのまま信じた人は、「PCR検査が少ない国ほど死亡者数が少ない」、「良かれと思って行った検査が逆に死亡者を増やす」、そしてさらには、日本を表す赤点が“謎の”斜め線に乗っていることから、「日本のPCR検査数は十分に足りている」と思ってしまうだろう。
そのような早合点をさせてしまうことこそが、筆者の思う、このグラフの最大の問題点だ。
このような
「ただデータを並べただけ」のグラフ、雑な統計が深刻な誤解を招く場合があることは、病気の流行状況などを調べる「疫学」や「疫学統計学」の分野ではよく知られたことだ。実際、筆者が比較的よく知る放射線被ばくの人体影響の分野でも、論文として公表された雑な統計が深刻な誤解を広めてしまったことがある。過去の事例からの教訓として、以下でそれを紹介しよう。
なお、筆者は上記のグラフに関し、
池谷教授にTwitter上で複数回コンタクトを求めたが、返信はないままとなっている。まだまだ深刻な状況が続く新型コロナ災害の渦中でこのような軽々しく不誠実な情報発信がなされたことに、筆者は幾ばくかの不快感と不信感をおぼえている。池谷氏には本件についての丁寧な説明を求めたい。
放射線被ばくの人体影響の分野でよく知られているデマに「
ラドンでホルミシス」がある。ラドンという放射性のガスを吸うと体に良い効果が得られ、肺がんに罹りにくくなる、というものだ。今ではすっかり間違いであることが分かっているこれも、雑な統計が作り出したデマなのだ。以下でこの件の経緯を簡単に紹介しよう。
1990年に米ピッツバーグ大学の
Bernard L. Cohenは、米国の全国411地域のラドン濃度と肺がん死亡率のデータを並べ、図2のようなグラフを描いた [1]。Cohenはこのグラフを用い、グラフ内に太めの直線で示されるように、ラドン濃度が高いほど肺がん死亡率が低くなる傾向が見られると主張した。彼はさらに、この統計結果は「被ばく量が多いほど被ばく由来のがんに罹る可能性が高まる」という現在の常識を覆すものだ、とも主張した [1, 2]。
図2.Cohenが全米各地のラドン濃度(横軸)と男性の肺がん死亡率(縦軸)を並べて作った図。ラドン濃度が高いほど肺がん死亡率が低くなっているように見えるが(太めの直線)、のちの複数の高精度調査により、その見方が間違いであることが証明される。
出典:「Science Direct」
Cohenによるこれらの主張は当然のごとく大きな議論を呼んだが、それもそう長くは続かなかった。その後、Cohenが使ったものよりずっと高い精度を持った調査手法(case-control study)による疫学調査が世界各地で行われ、Cohenの主張はすっかり否定されることになる。
英オックスフォード大学の
Sarah Darbyらは、欧州各国で行われた13のcase-control studyの調査結果を統合し、1つの大規模な調査として解析し直した結果を2005年に公表した [3]。この調査に含められた肺がん死亡は7148件にのぼる。この統合解析から得られた結果が図3だ。この図に見られるように、case-control studyから得られた結果は、肺がん死亡のリスク(縦軸)がラドン濃度(横軸)におおよそ正比例するという、不思議のない結果になった。これは上述したCohenの結果とは真逆の結果だ。
図3.欧州の13のcase-control studyを統合して得られた結果。横軸はラドン濃度、縦軸は肺がん死亡の相対リスク(ラドン被ばくを受けていない人と比べて肺がん死亡のリスクが何倍になるか、を表す)。ラドン濃度を2つの異なる方法で評価しているため、グラフが2つある。肺がん死亡のリスクはラドン濃度におおよそ正比例する。なんと、Cohenによる雑な統計結果(図2)の真逆だ!
出典:「the BMJ」
同じ時期に中国と北米でも同様の統合解析が行われ、いずれもDarbyらの結果と同じく、
肺がん死亡のリスクがラドン濃度におおよそ正比例するという結果になった [4, 5]。欧州・中国・北米で行われたこれら3つの統合解析は、UNSCEAR(原子放射線の影響に関する国連科学委員会)によって更に1つに統合され、ラドン被ばくからくる肺がんリスクの高精度な推定値を提供することとなった [6]。
さらに、これらの結果はICRP(国際放射線防護委員会)やWHO(世界保健機関)によっても採用され [7, 8]、世界各国のラドン防護指針を改善した 〈参考資料:
WHO 屋内ラドンハンドブック 公衆衛生的大局観 2009年〉