2020年2月に高瀬隼子による
『犬のかたちをしているもの』が集英社より出版された。高瀬隼子は同作で昨年10月に集英社の主催するすばる新人文学賞を受賞した。選考委員は江國香織、奥泉光、角田光代、高橋源一郎、堀江敏幸。
本書は主人公である「わたし」がある日、恋人である郁也と彼の子どもを宿したミナシロさんと呼ばれる女と会うところからはじまる。ミナシロさんは子どもを産もうと思っているが、子どもを育てる気はない。そこで郁也と「わたし」の子どもとしてもらってほしいと告げる。「わたし」は子宮の手術以降、妊娠の可能性をあまり持たない体になっており、ピルを服用している。性行為は可能だが、一度傷ついた子宮にずけずけと侵入してくる男に対して冷めた感情を抱きがちで、郁也ともセックスレスの状態が長い。
だからと言って「わたし」が子どもを欲しがっているわけでもなく、むしろ子どもというものへの愛着の希薄さから産みたいとは考えていない。だが同時に世間的に、もしくは社会的に、30歳を迎えた女性として子どもを持つべき、作るべき、という目線にストレスも感じている。そのような圧迫の中で葛藤する「わたし」の視点から、郁也との関係や、かつて飼っていた犬のロクジロウへの愛情などを描いている。
本書は欲求と役割の間で引き裂かれつづける女性の物語と言えるだろう。
「わたし」は常に自分の役割を意識している。郁也という男の恋人としての役割、社会的なひとりの女としての役割、成人した子ども、孫としての役割、そういった自分が何を「したほうがいい」かということへの葛藤が常にある。
恋人としてセックスをしたほうがいいというような意識、子どもをかわいいと思ったほうがいいというような意識、子どもを産んだほうがいいというような意識、そしてそういった役割を何の違和感もなく演じることができたら楽だろうというような意識を持つ一方で「わたし」はそれらを拒絶しようともしている。
子どもをかわいいとは思えず、だから子どもを産みたいとも思えない。恋人とセックスがしたいとも思っていない。親や祖母を安心させたいとは思い、そういった意味で子どもができれば何かひとつの責任から解放されるような気がしている。
「わたし」はそういった「したほうがいい」(と言われている)ことを「したい」と思えないために一種の罪を犯しているような意識を持っていることが文中から垣間見える。
「わたし」を物語の中で動かすのは恋人の郁也ではなく、彼と子どもをつくった女、ミナシロさんである。ミナシロさんと郁也の間に恋愛感情はない(と言っている)。彼女は金をもらって男と寝ている。郁也との間に子どもができてしまったことはちょっとした手違いだと言う。結婚して、子どもを産んで(中絶は怖い)、離婚すれば、女性の社会的な役割は一通りこなしたことになるが、子どもは育てたくない。だから郁也と戸籍上結婚して、子どもを産み、離婚して、親権を郁也に移したいと彼女は言う。ミナシロさんは「わたし」の病気のことを知っており、そのことに触れて、子どもを連れた郁也ともう一度結婚すればいいと提案する。
ミナシロさんは自分勝手で、人のプライベートを無思慮に脅かすような存在として現れるが、それでも「わたし」が彼女と郁也の子どもをもらうか葛藤しつづけるのは「わたし」とミナシロさんがある種の同類として描かれているからだろう。
ミナシロさんもまた「わたし」と同様に女としての役割を面倒くさく思っている。男という生き物に対する冷めた態度も「わたし」と似ている。だがミナシロさんと「わたし」はその表出において真逆の態度を取る。セックスすること、妊娠すること、出産すること、そういった「わたし」には不可能(だと感じている)ことを、ミナシロさんはあっさりと踏み越えていく(ように「わたし」には見える)。だからこそ「わたし」は、ミナシロさんに対する嫌悪感と同時にある種の羨望のようなものを抱いているようにも読むことができる。