中村哲医師のお別れ会。最後に参加者が献花し、終わるのに1時間半がかかった
去る1月25日、アフガニスタンにて銃撃されて亡くなった中村哲医師のお別れ会が、福岡市の西南学院大学チャペルにて厳かに行われた。筆者も、中村医師が通った西南学院中学校の一後輩として参列した。あらためて、中村哲医師が私たちに遺したものはなんだったのかを振り返ってみたい。
午後12時40分、開場20分前の段階で私が会場に到着した頃には、すでに1000人を優に超える人が行列を作っていた。会場となっているチャペルの席はすでに満席で、モニターで同時中継される隣接の一号館の教室をフルに使ってもなお続々訪れる弔問者は入りきれず、『
毎日新聞』の報道によると最終的な参列者数は5000人を超えたという。
中村医師を危険に陥れた「アフガン空爆支持」を誇る日本政府関係者
挨拶に立ったアフガニスタン特命全権大使は、時折ハンカチを目や鼻にあて、感極まって何度も声を詰まらせながら
「中村先生はアフガニスタンの偉大な友人であり英雄でした」とその死を悼んだ。その姿に、会場のあちこちではもらい泣きの姿がみられ、挨拶を終えた大使に会場全体から暖かな拍手が送られた。
あとを受けた独立行政法人国際協力機構(JICA)の北岡伸一理事長の挨拶は、それとは対照的だった。曰く、2001年のいわゆる9.11同時多発テロを受けた小泉政権下の対外関係タスクフォースの一員となり、アフガン情勢をウォッチしていたという。同タスクフォースが出した結論に、以下のような文章がある。
「テロ特措法による米国への後方支援は『大きな中東』をめぐる日本外交が地域の安定にも責任をもつ意志を世界に表明したものである」(
「21世紀日本外交の基本戦略―新たな時代、新たなビジョン、新たな外交―」平成14年11月28日、対外関係タスクフォース。首相官邸ウェブサイトより引用)
小泉政権は、9.11後即座にアフガン空爆に踏み切った米国の姿勢を一貫して支持し、2003年のイラク戦争でも多大な支援をした。南アジアから中東にかけて、現在まで続く情勢の不安定化に一役買ったことは疑う余地がない。
中村医師は当然、そのことに最も悪影響を受けた一人である。それまでは「日本人である」ということ自体が、アフガニスタン人やパキスタン人から信頼される一因となっていた。日本政府が米国のアフガン侵攻を支持した後は、それが通用しなくなった。
中村医師や、彼が代表を務めていた現地団体であるPMSのメンバー、そして多くのアフガニスタン人の命を危険に晒す後押しをしたということに他ならない。遺族や関係者の前で、よくもそんな経歴を誇らしげに語れるものだ。