「匝瑳モデル」の見学者は、官庁の方々から地域おこしを目指す方などさまざま。国内に限らず、中国、韓国、台湾、ベトナム、プエルトリコなどからも
さて、先日、びっくりしたニュースが流れてきた。
【再生エネ 配電に免許制 工場・家庭向けに地域完結】
「経済産業省は企業が特定の地域で工場や家庭までの電力供給に参入できる新たな仕組みをつくる方針だ。太陽光や風力などの再生可能エネルギーの事業者を念頭に配電の免許制度を設け、地域で生み出す電力を工場や家庭に直接届ける。電力大手が独占してきた配電に、他業種から参入できる。再生エネの普及を促すとともに、災害時の停電リスクを分散する」
(11/7 『日本経済新聞』のウェブニュースより抜粋)
今までは、大手電力会社が大規模発電(火力や原子力など)で、全国の電線を通じて電気を消費者に届けてきた。だから、俺らが支払う電気代は大手電力会社やその関連会社に吸い上げられて、地域に残らなかった。
しかし上記のニュースによると、2020年代の実現を念頭に、地域の消費者(家庭や事業所など)につながる電線の管理運営を免許制にする。そして、請け負う地域企業が太陽光や風力で作る電気を、地域の電線を通じて消費者に届けられるようにするというのだ。
しかも数百世帯の地域ごとに分散してゆく姿をイメージしているという。つまり、「
(東京)集中」から「(地域)分散」へと舵を切るということだ。
これが実現すれば、本質的な「電気の地産地消」が可能になる。例えば匝瑳市開畑エリアのソーラーシェアリングがある豊和地区は500〜600世帯で、そのほぼ全ての電気の消費量はソーラーシェアリングの発電量とだいたい一致する。しかしながら、ほとんどの世帯が東京電力に電気代を支払っている。
もう少し説明しよう。発電された電気は電線で繋がった近い場所に流れて消費されるゆえ、この開畑エリアのソーラーシェアリングで作られた電気は、いちばん近い豊和地区で使われていると言ってほぼ間違いない。
しかしお金の流れで見ると、豊和地区のほぼ全ての世帯は東京電力に電気代を支払い、ここのソーラーシェアリングの売電収入は東京電力や首都圏の提携企業などから送金されてくる。
つまりは、近くで作って・売って・買ってという当たり前のシンプルな形ではなく、
地域から遠く離れた「東京という場所」や「大企業という器」にお金をわざわざ迂回させているわけだ。その理由は、利益や既得権益や権力を、大都市や大企業や国に集中させるためだ。
でもこの政策が実現すれば、記事の通り、その地域で電気を作ってその地域で電気を実質で使ってもらい、その地域から直接にお金が入ってくるという循環になるのだ。
ソーラーシェアリングの周りで開催される収穫祭では、さまざまなライブも(和太鼓TAWOO 写真:山口勝則)
先に述べた「集中」は電気だけの話ではない。ガソリン代も、携帯電話代も、酒代も、外食代も、買い物も、
地域で支払うお金のほぼ全てが東京資本や外国資本の大企業に吸い上げられてきた。そして地域に根ざしていた小さな商売や職人、農林水産に関わる生業や中小企業は、必然的に淘汰されてしまった。
お金を払う先が大手企業だけになってしまったわけだ。せっかく地域の働く人に給料が入り、ご年配者に年金が入り、地方行政に補助金が入っても、そのお金はまた大手企業に使われて地域から出て行ってしまう。
消費者が住む地域にお金が循環しなくなってしまった。それが、戦後のこの社会で起きてきた地方衰退と格差拡大の一番の原因だ。
日本中の地域が元気を取り戻すには、地産地消を高めていくしかない。
文化的な生活を支える電気から地産地消システムに変化していけば、自ずとさまざまなヒエラルキー(階級)の下克上が始まる。地域で電気を作れて、地域で電気を融通することができれば、東京の政治家や大企業を通じずとも自立できることになるからだ。
ピラミッド型の従属システムから、水平型の民主主義的で公正なシステムへの流れに変わっていく“静かな革命”である。
と、大げさな話を書いてしまったが、油断は禁物だ。素晴らしい構想は得てして横槍が入り、いつの間にか大企業優遇や既得権益にすり替えられかねない。既存システムからの変革は大きな課題も山積みだ。せっかくの流れが止まらないように、俺たちは地域から注視し、地域から行動し、地域からアウトプットしていかねばならない。
【たまTSUKI物語 第22回】
文・写真/髙坂勝 写真提供・協力/山口勝則 Shunsuke 市民エネルギーちば株式会社