日本では、輸血に関してたいへんに深刻な
負の歴史があります。
輸血用血液については、星の数ほどの悲劇を経て1964年のライシャワー事件を契機として、昭和40年代には献血による自給自足が成り立ち、預貯血という誤った制度設計による悪しき習慣も昭和50年代後半になって制度上根絶できました。
一方で、血液製剤原料血の海外からの輸入血依存は、その後も続き、西側先進国では日本とフランスで特異的に激発した
血液製剤大規模薬害事件(薬害エイズ事件)の原因にもなりました。これも血液製剤の売買血依存からの脱却が幾つかの報道の後に動き始め、現在では国内献血による自給がかなりの程度進んでいます。
このことは、国産血液が世界的に安全性が高いという意味ではなく、
血液に限らず移植用臓器は、ドナー(提供者)から始まる臨床までの全流通過程によってその安全性は大きく左右されるという意味です。先にご紹介した「献血と輸血に関する倫理綱領」も、人類が経験してきた幾多の重大な失敗の上に成り立っており、自由意志と透明性の確保、責任の明確化がその核心です。この「献血と輸血に関する倫理綱領」は、採択が2000年7月12日で、2006年9月5日に修正されています。
これらは多くをドナーの善意と血液事業関係者の倫理に依存しており、とくに血液事業体には高い倫理規範と使命感によるたゆまぬ事業の倫理的前進が求められています。
この前提に立つと、今回のコラボポスターにおける吹き出しの中の文には強い拒否感を持たずにはいられないのです。これは、作品や作者の問題ではなく、日赤の問題です。冒頭で示した「作品がかわいそう」という筆者の感想はこのような背景によるものです。
次回は、ノベルティ(記念品)問題についてなぜ議論が何度も再燃するか、売血がなぜいけないかについて歴史的経緯をもとに論じます。
◆コロラド博士の「私はこの分野は専門外なのですが」緊急シリーズ・日本赤十字社献血コラボポスターに見る日赤の基本原則からの逸脱1
<文/牧田寛>