では結局、何が問題なのか? 身も蓋もない言い方をすると、
ポスターを擁護する側が、ポスターの問題を「否認」していることが問題なのだ。「否認」の仕方は様々だが、
ポスターに問題があるとは決して認めないぞという姿勢だけは一貫している。
公共性の高い団体と低い団体、公共性の高い場所と低い場所、主体と客体、巨乳「である」ことと、巨乳「を描く」こと、性的なものが誇張された表現と誇張されていない表現。
普段は区別できているはずで、そうでなければ日常生活を送るのも困難であろうはずのことが、当該のポスター問題になるやいなや、都合よくできなくなるのだ。
「否認」を行うものは、この区別の可能性と不可能性のあいだを不誠実に揺れ動く。たとえば、公共性の高い場所であることを問題にすると、“巨乳「である」表現と巨乳「を描く」表現の双方を”排除せよというのか、と言う。女性の客体化を問題にすると、当該ポスターの絵を”あらゆる場所で”禁止せよというのか、と言う。
延々と批判する側の主張を曲解し続け、そのような曲解はエコーチェンバーによって拡散される。そして、最終的に
「何を言いたいのかわからない、結局はお気持ちの問題なのだろう」「アニメ・漫画表現が嫌いなのだろう」と締めさえすれば、けして負けない議論ができるのだ。
最初に、筆者がポスターの賛否をめぐる議論について不毛だと言ったのは、こうした「否認」論に巻き込まれる可能性があるからだ。もちろん、女性表象の問題について思考し、丁寧に言語化していくことは必要なことだ。そして、問題を理解しない者に対して誠実に対話と説得を続けていくことも大切だ。それを否定はしない。だが、不誠実な「否認」論者と泥沼の論戦に入り込むぐらいなら、消耗する前にさっさと撤退して、ほかのことに時間を費やしたいものだ。
「行動する女たちの会」の行動の記録である『ポルノ・ウォッチング―メディアの中の女の性』(学陽書房、1990年)を読むと、80年代は70年代よりも多少はマシになったという感想が述べられている。女性表象に関していえば、2019年は1980年代よりもさらにマシになっているといえるだろう。状況が停滞しているようにみえたからといって悲観することなく、
関心を持ち続けていくことが重要なのだ。
<文/北守(藤崎剛人) 写真/HBO編集部>