1972年になると音海の内浦港には貨物船も入り、盛んに木材の荷役が行われています。また内浦港の造成は継続しています。
この頃になると三松から難波江を経て田ノ浦、音海までは現在とほぼ同じ動線が確保されています。また、舞鶴から塩汲峠をへて神野、難波江へ至る動線も概ね整備を終えています。
1972年にはすでにほぼ独立した陸路二系統、海路一系統の動線が確保されていることになります。
ここまでではっきりしたことは、
高浜発電所は、陸路二系統、海路一系統のほぼ独立した動線を持っていたことです。関西電力は、1965年の誘致後、直ちに調査工事と並行して準備工事を始めており、1970年の時点ですでに必要な動線を確保していました。
ここでもしも1968年頃に沿線住民の反対運動が起きた場合どうなったでしょうか。その場合は、舞鶴・塩汲峠・神野浦の経路を整備し、最悪の場合でも神野浦から海岸沿いないしトンネルで田ノ浦に独立した動線を確保すれば良いだけです。
重機材は、内浦港から搬入出来ますので、工期の遅れはほとんど無いと思われます。
ここで大飯発電所の工程を見てみましょう。大飯発電所は、高浜発電所に5年遅れて調査、着工、運開しましたが、道路が全く存在しておらず、本体着工に二年先だって取り付け道路を着工しています。あいにく、道路用地の買収が難航し、三ヶ月の全工事中断となりましたが、54ヶ月で一号炉、59ヶ月で二号炉を運開しています。
すでに陸上自衛隊によって車両通行可能な道路が整備されており、舞鶴から塩汲峠経由の街道も車両通行可能、内浦港の整備も間に合っていた高浜発電所建設工事で、
地元ボスの機嫌を損ねた程度で発電所建設の動線が閉塞されることはあり得ません。
更に言えば、元高浜町助役の森山氏(故人)は、
高浜発電所建設促進の為に浜田倫三町長(当時)が招聘した人物であって、この人物が交通遮断を行うこと自体があり得ないことです。仮になされても関電は迂回経路を確保できますし、最悪の場合は海上輸送により工事を進め、我慢比べすれば良いだけです。
なにしろ原子力発電所の工事には毎日千人単位の労働者が関わります。宿泊飲食だけでもたいへんに町は潤いますし、様々な資材調達、求人があります。
地域ボスが、そのようなまさに「利権」をむざむざ舞鶴市なり音海なり神野なりに譲り渡す可能性は全くありません。
「ピケット論」は、動機も実現性もあり得ないのです。
ここで最近流布されてきた
道路封鎖云々は、真っ赤な嘘であったことが自明となりました。ここにその嘘を再掲します。
b)森山氏の居住する集落(または関係する集落)が、高浜発電所への主要道路にあり、森山氏にたてつけば交通遮断された」
これも航空写真と地図を調べれば一目で分かることで、否定は容易です。そうではあってもファクトチェックを誰かがやらねばなりません。こういう非生産的な嘘を羅列するのは止めてほしいものです。
まさに恥知らずの大嘘つきです。