2019年9月25日、ニューヨークでの国連総会のサイドラインで、日米首脳は日米貿易協定の最終合意に達し、
日米共同声明*に署名した。当初、両国政府はここで協定文の署名を目指していたが、法的精査が間に合わず共同声明の署名にとどまった。政府は協定文署名を「10月上旬あたり」と説明するが、臨時国会が始まった10月4日時点でも日程は不明のままで、政府による「
協定の概要」**という説明資料は公開されたものの、
肝心な協定文本体については、国会議員はもちろん国民の誰一人として読むことができない。
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「日米共同声明」(2019年9月25日)>
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「日米貿易協定、日米デジタル貿易協定の概要」(2019年9月26日公表)>
それでも、政府の「概要」や報道によって、すでに日米貿易協定は安倍首相のいう「ウィンウィンの協定」ではなく、
日本が一方的に米国に譲歩したという多くの指摘がなされている。政府・財界からは「自動車の制裁関税を回避できた」「農産物関税の撤廃はTPP水準にとどまった」として評価する声ばかりだが、そもそも交渉の初期設定から検証すべきである。
日米貿易協定交渉は、米国による自動車への25%制裁関税を恐れた日本が、これを避けることを唯一で最大の「成果」と決め、代わり
に「TPP水準まで農作物関税を撤廃する」というカードを先に切ってしまった。これが交渉の力関係を決定的に規定し、米国に主導権を握られた状態で交渉は進んだ。
結果は、日本はTPP水準まで農産物関税の譲歩をした一方、
米国はTPPで約束した自動車関税撤廃をしていない。さらに、日本の最大目標の自動車への報復関税の回避については、先述の共同声明で
「日米両国は、これらの協定が誠実に履行されている間、両協定及び本共同声明の精神に反する行動を取らない」という曖昧な表現にとどまり、
米国が将来この措置を取らないという確約も得られていない。まさに
非対称で片務的な交渉と言える。
しかも2018年9月に日米貿易協定の交渉入りが決定された時点から、この協定は関税交渉の後に投資やサービスなど他分野が交渉されるという二段階方式が規定されており、仮に今回最終合意した協定が発効しても
、新たに第二ラウンドが始まる可能性もある。その影響や交渉プロセス、今後の見通しは改めて臨時国会で徹底検証されるべきである。
一方、日米貿易協定は国内への影響にとどまらず、日米以外の他国や国際的な貿易レジーム(体制)にも少なからず影響を及ぼすことになるが、残念ながらこの点はメディアでも十分に扱われていない。本稿ではこの点について考える。
世界の貿易量は2008年のリーマン・ショック以降、減速あるいは停滞しており(スロー・トレード)、回復傾向にあるもののかつてのような拡大は望めない。そこへトランプ大統領が登場し、いわゆる「保護主義」政策をとり始めた。「米中貿易戦争」はトランプ大統領の登場以前から存在していたが、2017年以降に一気に加速した。
米中対立は確かに大きな問題だが、世界の貿易問題と各国の力関係はもっと複雑だ。EUと米国の間でも制裁関税の応酬は起こっているし、EU-中国も微妙な緊張関係にある。「一帯一路」の下、中国はアフリカ・アジアへ投資・援助を通じてプレゼンスを高め、インドは国内産業保護の観点からRCEPの規定になかなか合意していない。一方、かつてWTO交渉にて欧米から市場開放や規制緩和を強要されてきた新興国、途上国は、先進国の掲げる「WTO改革」に懐疑的・批判的で、国連「
持続可能な開発目標(SDGs)」の精神を反映させた根本的な改革を求めている。
NGOや労働組合、農民組織、先住民族組織などを含む国際市民社会は、
一部の多国籍企業や投資家だけを利する自由貿易協定を批判し続けてきた。
グローバルな規制緩和によって雇用、公共サービスなどが市場化され、国内の貧困・格差、地域経済の衰退が起こっている。また自由貿易協定よって各国の公共政策のスペースが縮小することへの批判も強い(ISDS条項など)。国際市民社会は、現在の貿易体制を変革し、地域主権や食料安全保障、人権や環境、労働者の権利保護、貧困者への医薬品アクセスの確保、気候変動対策などに寄与する貿易への転換を提言している。
これらの動きが様々なレベルで同時に起こっているわけだが、いずれにしても現在の国際貿易体制は人々と地球環境にとって持続可能ではなく、何らかの変革や軌道修正が必要だという危機感を、多くの国の政府・政策立案者、研究者、市民社会が共有している。その際に重要となるのが、WTOによる多国間主義であり、多角的な貿易交渉の枠組みである。その意味で、日米貿易協定の行方を多くの国が注目してきた。トランプ大統領が振りかざすディールに屈するのか、それとも
国際協調路線とルールに基づき「できないことはできない」と毅然と対応するのか。その違いは今後の世界の貿易体制の方向性にも関わり、多くの国にも影響するからだ。