JCO臨界事故の悲劇から20年。事故当時の村長、村上達也氏が語る「あのとき」

フォーラム

撮影/井田真人

2019年9月30日でJCO臨界事故発生から20年

 茨城県東海村の株式会社ジェー・シー・オー(以下、JCO)で臨界事故が起きてから早20年となる。不適切極まりない取り扱いをされた核燃料が何の変哲もない事業所内で臨界に達し、“裸の原子炉”となって強烈な放射線を放ち続けたというこの未曽有の核事故は、救いのない、陰惨な亡くなり方をした2人の死亡者と、一般住民を含む多くの被ばく者を出した。  この事故の発生日1999年9月30日から20年になるのを機に、事故の現場となった東海村内では様々な催しが企画・実施されている。9月7日には豪華講演陣によるフォーラム「 JCO臨界事故を教訓として、ともに考える」が開かれ、300人ほどの来場があった。筆者もその来場者の1人であることは、前の記事でお伝えしたとおりである。  今回はその記事の続きとして、上記フォーラムで村上達也 前東海村長が行った講演から、とくに筆者の印象に残った部分を紹介したい。

村上達也 前東海村長の講演から

 村上達也氏の演題は『JCO臨界事故の東海村への衝撃』であった。村上氏は元々、銀行マンであったが、1997年に東海村の村長になり、2013年9月までの4期16年を務めた。同氏はその間、JCO臨界事故と福島第一原発事故の両方に直面している(後で述べるが、実は、少なくとももう一つの大きな事故に直面している)。  以下、村上氏が行った講演の内容について、私見を交えながらつらつらと、箇条書き的に書いてみよう。他者が行った講演についての記録であるため、やや散漫な書き方になってしまうが、お許しいただきたい。村上氏の示唆に富んだ講演内容を少しでも読者に伝えられれば幸いである。

事故収束に尽力した1、2、3、3

・講演の序盤だったと記憶しているが、村上氏は「この事故の収束に尽力した人には、名前に数字が付く人が多い。1、2、3、3。田中俊一、住田健二、越島建三、齋藤伸三。私は例外」(筆者の記憶で書いているため、細かな表現は異なる)と述べた。このうち、今回のフォーラムの講演者の一人であり、当時は日本原子力研究所 東海研究所の副所長だった田中俊一氏と、同研究所の所長だった齋藤伸三氏、そして、原子力安全委員会委員長代理だった住田健二氏の3名は、前の記事にすでに登場している。残る越島建三氏は、事故の舞台となったJCO東海事業所の当時の所長である。同氏は後の刑事裁判で有罪判決を受けた6名のJCO職員のうちの1人でもある。  なお、田中氏と齋藤氏の当時の所属である日本原子力研究所は、以下に登場する核燃料サイクル開発機構と2005年に統合され、現在の日本原子力研究開発機構になった。
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「東海村が終わったかもしれない」
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