1960年代前後に入ると日本映画のニューウェーブとして大島渚が「青春残酷物語」(1960年松竹)を発表。太陽族映画が比較的裕福な中産階級の家庭の若者だったのに対し、大島の作品は低所得層の若者をテーマにした。
ちなみに、フランス映画の巨匠、ジャン=リュック・ゴダールは大島渚の「青春残酷物語」をニューウェーブ映画の始まりと考察している。ここでいうニューウェーブ(仏語でヌーヴェルヴァーグ)とはそれ以前のスタジオで撮影、というものではなく、オールロケ・同時録音・即効演出といったリアリズムへの追求というものである。
その後大島は「太陽の墓場」(1960年松竹)で、大阪・釜ヶ崎を舞台とし、売血、売春、戸籍売買に溢れる当時のドヤ街を巡る戦後日本の最底辺の人々の生活を描いた。これはタイトルからも明らかなように「太陽族映画」を揶揄するものとも取れる。主演の炎加世子は松竹ヌーヴェルヴァーグを代表する女優であり、彼女が演じる売血に従事する花子は、自身の利害関係の為には売春も辞さない男勝りな強い女として描かれている。これは「太陽族映画」で男性に連れ回され弄ばされる女性像とは違う。
テレビの普及による映画の衰退と「ピンク映画」の隆盛
この時期になると、一世代前の映画とは異なり、より政治的な、社会的メッセージの強いものが性と暴力をメタファーにして出てくるようになる。またそれらの映画は大手五社、大映・松竹・東宝・東映・日活からではなく、大蔵、国映といった、独立系プロダクションで、低予算・少人数で製作された。
また、60年代に入ると、家庭用テレビの普及と娯楽の多様化で、映画業界はそれ以前に比べると厳しい状況になった。例えば、1960年に日本国内で製作された総映画数が7457であるのに対して、1970年にはその半分になっている。そしその内の半数はピンク映画といわれる、新しいジャンルの映画だった。
現存するフィルムは完全版49分のうち21分しか残っていないが、ピンク映画の第一号とされる小林悟監督の「肉体の市場」(1962年 大蔵)は六本木族による暴力や強姦シーンが猥褻として公開直後、上映禁止を言い渡された。8シーンカットの後、上映されたが、一連の警察沙汰によって話題性を帯び、多くの人が劇場に足を運んだという。
ピンク映画という名前が普及する前には、女性の入浴シーンや少し肌が露出したりするような描写があるものを「お色気映画」、「エロダクション」や「愛欲映画」と呼んだりしていたが、1963年の「情欲の洞窟」(国映)が発表された際に夕刊紙「内外タイムス」の文化芸能記者村井実が「おピンク映画」と呼んだ事がその起源とされる。
シネマコンプレックスなどの映画施設ができる以前、映画館にはヒエラルキーがあった。封切館という大手5社の新作映画を上映するものと、それらを2〜3週間遅れて上映する二番館・三番館と呼ばれるものがあった。
ピンク映画は基本二番館・三番館で上映されたが、ニューウェーブ映画の人気で性表現が恒久化した後、二番館・三番館ではピンク映画を割安な値段で二本立て、三本立て上映でその経営を保っていた。前述したように、映画業界が厳しい状況の中、全国の封切館は1960年の7450館から1969年には3600館に激減した。しかし、ピンク映画の総興行収入は1964年が1億円だったのが、翌年の1965年には5億円と急成長を遂げていた。