「一緒について行っていいですか? コンビニ」
20年ほど新調していないであろう着古したジャージを寝巻き兼部屋着にしている40代の高齢ニート男性が興味津々で切り出す。
その発言の矛先は、不動産の登記図面が見つかったためコピーとりを命ぜられた私に向けられていた。
断る理由もないため「構いませんよ」と彼の家から徒歩1分ほどのコンビニへと2人で向かう。
「淹れたてのコーヒーが、買えるんですね!? いや、聞いてはいましたけど」
自動ドアが開くなり、今では当たり前とも言えるコンビニ店頭のコーヒーマシーンに大きな声をあげる。そんな自身の声に驚いたのかこう続けた。
「すみません。初めてコンビニに来たもんで……」
今や日常生活で最も入店に関する敷居の低い店とも考えられるコンビニに来たことがない、この告白自体も衝撃ではあったが、その理由について訪ねた際の答えもまた私にとって衝撃だった。
「いや、行く理由がなかったもんで」
“引きこもり”という能動的な言葉から、我々はどうも積極的に家や自室から“出ないぞ”と強い意志で引きこもる彼らの姿をイメージしがちだが、“出る理由がない”というなんとも受動的な理由から行動範囲を限定しているものも少なくないのだ。
また、そんな「高齢ニート」「高齢引きこもり」の多くは、世間的に悪者にされがちなインターネットに救われているフシがある。友だちを作り、外界の知識を得て、セドリなどで収入を得るものに、趣味を作るもの。インターネットを通じて知り合った人物とのオフ会や交際といった事例まである。
我々はどうしても自分の手元にある“常識”という公式を当てはめ、対象となる人物に関する回答をアバウトに導き出しがちだ。
ところが実際には人それぞれが持つ“常識”も違えば、考え方も違う。「高齢ニート」「高齢引きこもり」と一括りに考えてしまって良いものではなく、我々と同じく一人ひとりに異なる事情がある。
まずは対象となる人物のもつ“常識”や考え方に価値観、このようなものに思いを寄せてみることが重要なのではないだろうか。
自分の持つ“常識”を一方的に当てはめての計算ではもちろん割り切れない部分が出てくる。そんな割り切れない部分を切り捨て、自分にとって都合の良い部分だけを誇張し“回答”として提示する。
そのような切り口で他者を語ること、それは差別や偏見との誤差も少ない“近似値”と言える表現方法なのではないだろうか。
<文/ニポポ(from トンガリキッズ)>
2005年、トンガリキッズのメンバーとしてスーパーマリオブラザーズ楽曲をフィーチャーした「B-dash!」のスマッシュヒットで40万枚以上のセールスとプラチナディスクを受賞。また、北朝鮮やカルト教団施設などの潜入ルポ、昭和グッズ、珍品コレクションを披露するイベント、週刊誌やWeb媒体での執筆活動、動画配信でも精力的に活動中。
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