筆者は、メキシコやソ連といった「
政党独裁体制」の研究者である。日本ではあまり知られていない、はっきり言ってマイナーな学問である。単なる面白半分、興味本位で研究を続けてきた。つい最近まで、日本の政治と筆者の研究には何の関係もないものだと思っていた。
しかし、近ごろの日本のニュースを眺めていると、
日本の政治と政党独裁体制の政治が、重なって見えることが多くなってきた。最近の出来事だと、
厚生労働省の収集する「毎月勤労統計」という統計にまつわる問題は、その最たるものである。報じられたところによれば、厚生労働省は、賃金、労働時間や雇用の変動に関する「毎月勤労統計」の収集にあたって、本来ならば500人以上の事業所全てを調査すべきところ(全数調査)、2004年から勝手に一部のみを調査(抽出調査)していた。その上、不正が始まった2004年から2011年にかけての資料を破棄したため、「毎月勤労統計」を基に算出する「賃金伸び率」を、この時期については計算できない状態となっているという(参照:
東京新聞「平成の賃金 検証不能 統計不正 政府廃棄で8年分不明」2019年4月29日付け朝刊)。
しかし、筆者が特に問題にしたいのは、この明らかな不正ではない。この事件には、2018年に、毎月勤労統計の収集方法が大幅に変更されたという問題もあった。具体的には、毎月勤労統計の対象事業所はかつて2~3年毎に一斉に入れ替えられていたところ、この時、一部入れ替え方式に変更された。その結果、賃金の伸び率が見かけ上、上昇した。しかも、この統計収集方法の変更に先立つ2015年、当時の首相秘書官である中江元哉氏が、厚生労働省側に統計に関する「問題意識」を伝えていた。その後、総務省の統計委員会の検討を経て、統計の収集方法が変更されたという(参照:
牧原出「統計不正問題が揺るがす『専門性』に対する信頼」『週刊東洋経済』2019年3月9日号)。
これらの事実が明らかになると、野党は、賃金の伸び率が見かけ上、上昇するように政権が圧力をかけたのではないかと国会で追及した。首相である安倍晋三氏は、当然、そうしたことは起きていないと反論した(参照:NHK
『クローズアップ現代』2019年2月18日)。だが、国民の関心がそれほど盛り上がらなかったこともあり、この問題は政治的にはおおむね収束した。
このニュースは、筆者にとって衝撃であった。というのは、
中国共産党をはじめとする政党独裁国家で起きる政府統計の水増しと、この事件との間に、一定の関係を見出してしまったからであった。もちろん、政党独裁国家の統計不正と、今回の厚労省の統計問題は同じではない。賃金が見かけ上、よく見えるようになる今回の統計収集方法の変更にしても、ルールに則って行われたものである。なにか違法なことが行われたわけではない。にもかかわらず、政党独裁国家の統計不正問題と日本のそれとの間に、不気味なつながりを見出すこともできる。報道を追いかけながら、筆者はそう感じた。
もちろん、日本の政治は筆者の専門ではない。専門外のことに口出しをするのは、おこがましい。そう思ってきた。しかし気が変わった。日本政治史家の御厨貴氏が、最近、次のように書いていたからである。御厨氏は言う。「長く政治を見つめてきた人間の見立て」として、現在の我々は「
かなり重要な岐路にいる」。何故なら、次の時代には「営々と築き上げてきた政党政治が終わりを告げて、何か新しい形につくり替えられている」かもしれないからだ、と(参照:御厨貴「小選挙区制、二大政党制の改革で劣化した“政治家気質”」『中央公論』2019年4月号、139頁)。この文章を書くのは、御厨氏の危機感を筆者も共有するからである。
以下では、独裁国家の統計不正の問題を簡単に説明し、日本の事例と簡単に比較検討する。そうすることで、危機感の由来が伝われば幸いである。
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中国やソ連における統計不正
政党独裁国家の公式統計は、信頼性が低いことで知られている。真っ先に思い浮かぶのは、中国だろう。共産党一党独裁国家である中国の公式GDP値の信ぴょう性に疑問があることは、しばしば指摘される(参照:梶谷懐『中国経済講義』中央公論新社、2018年など)。
面白いのは、共産党の指導者層みずから、公式GDP値を信じていないことである。例えば、中国の現首相である李克強氏は、遼寧省の党委書記であった2007年、駐中国アメリカ大使クラーク・T・ランド・ジュニア氏との面談で、GDP値は、「『人間が作るもの(man-made)』であるから、頼りにならない」。「『特にGDP値は、参考にするだけである』と笑いながら語った」という。本来は機密であった李克強氏とアメリカ大使とのこの会談記録は、ウィキリークス上で暴露されている(参照:
Wikileaks)。
公式統計が怪しいことにかけては、同じく一党独裁体制のソ連も同様だった。ソ連の公式統計によれば、1917年以降の70年間で、国民所得は149倍、工業生産は330倍に増大したという。しかし、西側諸国の専門家は、ソ連の公式統計を鵜呑みにすることはできないと考えていた。ソ連には、
外部に公表されることのない正確な統計と、宣伝用の粉飾された統計の二種類があるという経済統計に関する「二重帳簿説」も存在したほどであった(参照:栖原学『ソ連工業の研究 : 長期生産指数推計の試み』御茶ノ水書房、2016年、19頁)。事実、ソ連が崩壊する前には、ソ連の統計専門家もその信頼性に疑問を呈していたほどである。しかし、ソ連崩壊後に裏帳簿が発見されたという話は聞かない。してみると、ソ連の指導者層も、信頼できる統計を入手できていなかったようである。
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政党独裁国家=人事権支配
この種の統計不正が政党独裁体制で起きるのは、
党および政府の下位者が、自らの業績を上司に対して誇張しようとするからだと考えられている。ソ連についていえば、近年になって出版された研究書には次のようにある。「統計当局あるいは共産党指導層自体も、みずからが作成する不正確な統計に手を焼いていた」。「彼らは生産の増加と減少の実態を正しく知ることができなかった。生産現場である企業が、当局に対して生産の実情を隠そうとし、それを見栄えのよいものにしようと努めたからである」。「ソ連で企業の生産努力を評価するのは」「計画当局であったが、評価の基礎となる生産データは、実質的に企業自身が作るものであったからである」(参照:栖原『ソ連工業の研究』68頁)。
「制度的革命党」という政党による独裁が1929年から2000年まで続いたメキシコでも、例えば農業生産高のデータは偽装されていた。ある農学者によれば、「市町村の下級公務員は、前年比で穀物生産高が低下したと報告すれば直属の上司の不興を買うと知っているため、数字を『調整』」しており、「同じ事は、地方自治体から州政府、州政府から農業省、農業省の官僚から次官への報告の際に次々と繰り返され」ていると書いている(参照:Yates, Mexico’s Agricultural Dilemma, University of Arizona Press, 1981, p.274)。
中国については、興味深い研究が近年になって発表された。その研究によれば、経済活動の活発さの一つの指標となる電力消費量の伸びと、公式GDP成長率の差が、各地の党委書記の任期終わりに大きくなる。この事実は、各地の党書記が、自らの人事異動期にあわせて、業績評価の対象となるGDP値を何らかの形で水増しした結果だと考えられる(参照:Wallace, “Juking the Stats? Authoritarian Information Problems in China,”British Journal of Political Science 46(1): 11-29, 2016)。「
上に政策あれば、下に対策あり」という言い回しが中国にはあるが、こうした事態をよく示しているといえよう。
ソ連・メキシコ・中国に共通するのは、一つの政党が支配する
政党独裁体制だということである。
政党独裁体制の特徴は、政党という組織を通じた「人事権」によって支配する点にある。
党下位者が様々な役職につくかどうか、昇進するかどうかを決定する権限をもつ党上位者が、その人事権を使って下位者を服従させる体制なのである。
例えば、ソ連共産党は「
ノメンクラトゥーラ」制と呼ばれる人事権支配体制を布いていた。文字通りには「名簿」を意味するノメンクラトゥーラとは、様々なポストに就くことができる人物の一覧表およびそこに掲載された人々を指す言葉である。このノメンクラトゥーラの作成権限をもつ党上位者が、党下位者を支配していた。中国共産党も、基本的には同じ人事権による支配体制である。メキシコの制度的革命党の場合は、ソ連や中国といった共産党一党独裁体制とは異なるが、やはり「
デダソ」と呼ばれる人事権による支配が行われていた。
人事権による支配が貫徹される場合、党下位者は、自らの業績を党上位者によく見せようとする。その結果として、様々な方法で統計指標が操作されるのだと考えられる。