“女性活躍推進”が求める女性像と、世の中が求める女性像の違い
とても優秀な女性の後輩が、会社を去った。一流大学を卒業し、職務遂行能力も、そしてチームで仕事をするうえで必要な人間力も兼ね備えた優秀な人材だった。理由は、「主婦業に専念する必要があるから」とのこと。聞けば、配偶者は官僚で多忙を極めており、妻も夫もフルタイム+残業で、働き詰めの毎日に限界を感じたらしい。20代半ばで、子供はまだいないとのことだった。
てっきり、配偶者からの要望があったのか、もしくは話し合いの末、本人たちの希望で決めたことなのだろうと思っていたら、予想外の言葉が出てきた。「私の母が、もっと旦那さんの面倒をしっかりみなさい、って言うんです」。これはまさに、働き盛りである現代の20~30代女性と、その親世代との「女性が働く」ということへの認識の差だと感じた。義母ではなく、実の母が言っているのだ。
「これからは女性の時代よねぇ」と言い、良い教育を受けさせ、エリートと呼ばれてもおかしくないキャリアを歩ませたうえでも、なお根本に残っているのは「家庭を守るのは、奥さんの仕事だ」という価値観なのである。
これに限った話ではなく、男性は潜在的に「女性は常に美しくあること」を求めている。同じ環境下・同じ条件で労働していても、見た目が美しい女性を好み、見た目を磨くことよりも仕事を優先して一生懸命働く女性を「男みたいだな」と陰口を叩く。
その場にいる女性社員に「セクハラじゃないからね、通報したりしないでね(笑)」と前置きしながら、男性社員に対して下ネタを飛ばし、爆笑する。その行為からは、セクハラが重大な問題であるということを自覚しながらも、それは「自分が出世するための傷にならないために気をつけること」であって、「女性に不快な思いをさせたくない」という気持ちは根本的に存在しないということが明確にわかってしまう。
女性にとっては苦痛だと感じる言動の数々を我慢して笑顔でやり過ごし、可愛がられるための努力をしながら働き続けることが、“女性活躍推進”のゴールなのか。そうしたことができる「賢い」女性が、「能力の高い女性」として評価されるのだろうか。
“女性活躍推進”で求められる女性像と、過去の長い歴史の中で実際に社会に根付いた価値観の中で良しとされている女性像には、大きな溝がある。その溝の中で苦しむ女性が一人でも少なくなるためには。日本社会が今後も活発な労働環境を有し、誰しもが生きやすい社会となるためには。
今の日本社会における女性活躍に関する問題は、女性だけのための問題でもなく、女性だけが考えるべき問題でもない。本当の意味での「多様性」の必要性や、その実現について、社会全体の中で考えることが求められている。
文・汐凪ひかり