写真=時事通信社
春休みの子供たちが、朝から浮足立っている。
いよいよ刻限が近づくとテレビの前に2人揃って正座して、「まだ官房長官こないの?」「もうそろそろのはずなんだけどなぁ」とヤキモキしている。いざ新元号の発表となると、「令和だって。なんかしっくりこないね」「でも、書きやすい漢字でよかったね」とウキウキしながら感想を語り出した。
こういうとき、素直に楽しめるのは子供の特権だろう。作為的でアーティフィシャルな演出にまみれたものであっても、子供は「歴史的瞬間」を素直に喜ぶ。そういうものの裏に潜む、人為や意図やメッセージを考えられるようになることを「世知辛い」といい、世知辛さを知った者を大人と呼ぶのだ。
「お前ら、こんなことで喜んでちゃいけないよ」と言いたくなるのは世知辛さを通り越して、物を考え物を書く人間の職業病。子供が喜ぶ姿を微笑ましく見守るのが親の責務というものだ。行きすぎがあればそのとき、指摘すればいい。
しかし、どこかで説教してやろうと、手ぐすね引いて待っていた私の心配はどうやら杞憂だったようだ。
テレビは新元号発表に沸き立つ街角を中継している。それを見て小3になる下の娘が、こう言った。
「みんな喜びすぎよね。まだ、平成が終わったわけじゃないのに。天皇陛下、かわいそう」
大人はこうはいかない。大人になると素直に誰かの気持ちを慮(おもんばか)ることが難しくなる。あらゆる事象に政治的意図を勝手に読み込み、政治的に動くのが大人という生き物だ。
朝日新聞によると、二松学舎大学の石川忠久元学長も、政府から新元号考案の委嘱をうけていたという。石川学長は我が国における漢詩研究の第一人者。漢籍から考えた案ではなく、聖徳太子の十七条憲法にある「和をもって貴しとなす」から採った「和貴」を見せたとき、政府の担当者は「首相も喜びます。これでいきましょう」と言ったそうだ。こういう判断が即座にできることを「大人」というのだろう。