受精卵を妻の体内に戻すためには、夫婦揃って書類に署名をする必要がある。ただ、妻が夫の分を勝手に署名しても、病院には見抜く術がない。あるとき、こんな夫婦間トラブルに遭遇したという。
「夫と弁護士さんが揃って病院に来たことがありました。受精卵を体内に戻すときの書類を確認させてほしいと言うんです。この夫婦は第一子を人工授精で授かっていたのですが、その後離婚してしまったようなんです。それにもかかわらず、第一子のときに保存していた受精卵を奥さんが勝手に体内に戻して妊娠してしまったようです。夫は、書類の署名が自分の筆跡なのかどうか確認していました」
受精卵や精子を保存できるようになったことで、「死後生殖」を認めるかどうかという難題も持ち上がっている。子どもを授かる前に夫が亡くなった場合、保管していた受精卵や精子で妊娠することは可能だ。しかし現在の日本では認められていない。
「不妊治療中の女性が来院して、夫が亡くなったと肩を落としていました。子どもを授かる前に夫が亡くなってしまい、食事も喉を通らないようで、かなり痩せてしまっていました。この夫婦は受精卵を保存していましたが、日本では夫の死後に利用することができません」
例えば、日本受精着床学会は、不妊治療の都度、婚姻中であることと夫が生存していることを確認するよう求めている。日本生殖医学会も、精子の凍結保存は本人が生きている間に限るとしている。現時点では、夫の死後に保存してある精子や受精卵を用いることは認められていないのだ。しかしオーストラリアでは2016年、亡くなった夫の精子を妻が用いることを裁判所が許可している。今後日本でも「死後生殖」の是非をめぐって議論が活発化する可能性は高い。
生殖医療の現場を担う胚培養士の責任は重い。しかしやりがいも大きいという。
「私たちは患者さんが産科に移ることを『卒業』と呼んでいます。患者さんがやっとの思いで妊娠し、卒業したときはやはりやりがいを感じます。先日、子宮筋腫がやっと治っていざ受精卵を体内に戻すという患者さんがいました。体内に戻すだけでは着床するかどうかわかりませんが、その患者さんは体外受精ができるというだけで感極まって号泣してしまったんです。子どもを欲しいという気持ちを強く持っている人が多く、その手伝いができるのはとても嬉しいです」
また、子どもがほしい夫婦にはこう呼びかけていた。
「子どもがほしいのになかなか妊娠しない場合は、躊躇せずに病院に来てほしい。中には10年間子どもに恵まれずに来院する人もいますが、年齢が上がるにつれて妊娠する確率は下がります。またインターネット上では『妊娠菌』を始めとした根拠のないジンクスの情報であふれていますが、そういったものには頼らないでください」
<取材・文/HBO取材班>