ところで、公平を期して書きますと、先に挙げた研究の方法論上の問題点(シナリオ感情喚起とカメラの存在)について、佐藤氏らも自ら論文の考察で指摘しています。
論文の弱点を論文執筆者自らが自覚していることを示すことはよくあり、それが将来の研究に活かされるならば意味のあることなのですが、それが将来の研究につながっていかない場合、この研究の結論が一応の答え、つまり、日本人の表情は特有である、ということになります。
私が懸念することは次の通りです。
日本において表情研究は米国と比べ大分遅れており、さらに実用性を意識した応用研究がなされることはほぼないため、こうした基礎研究の部分的な成果で研究が打ち切りになってしまったり、研究成果が一人歩きし、ときに拡大解釈されます。
原論文を読まず、あるいは理解せず、冒頭の見出しだけを読んだ読者が、日本人の表情は特殊だとか、エクマン理論は意味がない(エクマン理論が完璧であるとは私も思いませんが)、果ては日本人に微表情はない、などと極端に考え、応用研究の必要性の声がかき消されてしまうということです。
現時点ですでに、この研究の発表を受け、見出しや概要だけを読み、原論文を読んでいないと思われる人々の反応は、日本人表情の活用可能性に懐疑的になり、誤解が広がり始めているように思えます。
これでは表情研究が発展的に広がっていきません。日本における日本人の表情に対する価値が否定的な状態に置かれ、表情という情報を有効活用しようという気運が衰退してしまうでしょう。
そうならないためには、表情研究者には、特に表情研究のような応用研究につながりやすい分野では、「現実性」を意識して実験してもらいたいと思いますし、私たち読者には、研究結果を正しく理解する科学リテラシーが求められるのだと思います。
科学研究は研究室の中だけにあるのではなく、社会に開かれているべきだと私は思います。科学の知見は私たちの社会全体が共有する英知だと思うからです。
私は、先に挙げたような問題点を抱えながらも日本人の表情に焦点を当てた研究が、日本で行われたこと自体には大いに価値を感じますし、基礎研究が本研究のような段階的な過程を踏む必要があることも理解しています。
そうであるからこそ、研究者は自己の研究の社会的インパクトを意識し、それを享受する私たちはその価値を正しく判断する必要があるのだと思います。
日本の心理学が開かれた社会に進展していくことを願っていますし、そうなるように私が出来ることは何かと私自身も自問自答し続けていきたいと思います。
参考文献
Wataru Sato, Sylwia Hyniewska, Kazusa Minemoto and Sakiko Yoshikawa (2019). Facial Expressions of Basic Emotions in Japanese Laypeople. Frontiers in Psychology, 10:259.
【清水建二】
株式会社空気を読むを科学する研究所代表取締役・防衛省講師。1982年、東京生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、東京大学大学院でメディア論やコミュニケーション論を学ぶ。学際情報学修士。日本国内にいる数少ない認定FACS(Facial Action Coding System:顔面動作符号化システム)コーダーの一人。微表情読解に関する各種資格も保持している。20歳のときに巻き込まれた狂言誘拐事件をきっかけにウソや人の心の中に関心を持つ。現在、公官庁や企業で研修やコンサルタント活動を精力的に行っている。また、ニュースやバラエティー番組で政治家や芸能人の心理分析をしたり、刑事ドラマ(「科捜研の女 シーズン16」)の監修をしたりと、メディア出演の実績も多数ある。著書に『
ビジネスに効く 表情のつくり方』(イースト・プレス)、『
「顔」と「しぐさ」で相手を見抜く』(フォレスト出版)、『
0.2秒のホンネ 微表情を見抜く技術』(飛鳥新社)がある。