次の時代の価値観は「墓は要らない」「墓には入りたくない」

髙坂勝
お墓イメージ 俺は若い頃から、個人の考えとして「墓は要らない」「墓には入りたくない」という考えを持っていた。墓に入ること自体にも興味がないが、何よりも墓があることで次の世代に墓参りや管理をしてもらわねばならないことが嫌だからだ。それなりの労力と維持費がかかるのだから、次の世代のカネと時間を浪費したくない、というわけだ。  親にも若い頃からそう伝えている。「お前は非常識なことを……そういうものなんだから」といつも返されていた。がしかし、最近は認めているようだ。実際に墓を持たない人も増えてきたからだろう。

伝統的・当たり前と思われているものを疑え

 伝統的とか当たり前とか思われているものについて「本当にそうなのか?」と考えることがよくある。俺の場合、その判断基準を明治初期以前の時代と照らしてみる。大量流通・大量生産・大量消費の社会になる前と比べて考えるのだ。  例えば、正月に誰もが年賀状をたくさんやりとりする。これは本当に“伝統的”で“当たり前”のことなのか?  7世紀頃から年賀状らしきものが生まれているが、それは宮中や権力者や富裕層が中心だった。しかもそれは返信が半年後といった例もあるようで、のんびりしたものだったようだ。  庶民に手紙が普及したのは江戸の飛脚制度から。それでも正月に届くように、何十枚も何百枚も書いて送っていたわけではない。手作りの和紙がそんなに大量生産できるわけないし、生身の人間が走って日本の隅々まで手紙を届けていたということを考えれば、大量に出すのは無理だったことが容易に想像できる。  庶民に年賀状が定着するのは明治20年過ぎだ。ということは、古い伝統でもなんでもない。年賀状には、コスト、手間、意味合い、その時期だけ輸送量が急増して配達員が必要になるなど、経済合理性も環境合理性もない。しかも、プリンターで印刷した年賀状には、俺はセンスも意味も見いだせない。だから年賀状を書かなくなった。もう30年になる。
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墓に入るのは「当たり前」だったのか?
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