写真/時事通信社
2019年がやってきた。言うまでもなく、今年「平成」が終わる。
中国に倣い、一世一元の制度が日本に導入されたのは、明治のこと。それ以降、元号の変わり目とは「新時代の幕開け」を象徴すると同時に、「天皇陛下の御不例」を強制的に意識せざるを得ない代物だった。しかし今回は違う。素直に新時代の幕開けだけを祝うことができる。
なに憚ることなく新時代だけを祝うことができるようになると、今度は「新しければなんでもいい」という軽薄な風潮がもてはやされるようになる。だが、誰でも目にできる時代の境目で「新しい」と珍重されるものとは、単に「属性として新しい」にすぎないことがほとんどだ。
そのわかりやすい事例が『文學界』の1月号に掲載された、落合陽一と古市憲寿の対談だろう。
5大文芸誌の一角を担う同誌が平成最後の年の年頭に「平成考」なる企画を立てるのはごく自然なことだ。そこで落合信彦の息子と上野千鶴子の弟子に対談させるのも自然な成り行きだろう。それになによりこの2人は、メディアの世界が飛びつきがちな「わかりやすい若者キャラ」を有してはいる。
だが、内容がいただけない。2人が展開するのは、「新しいテクノロジーへの期待」と「財源とコスト」という話。確かにAIや仮想通貨など取り上げられる題材は目新しいかもしれないが、テクノロジーの進歩に眼前の社会問題の解決を頼る姿勢などそれこそ明治の昔からあるし、なによりあらゆる政策課題を「財源とコスト」で語ってみせるのは、その分野に通暁せずとも手っ取り早く「なんか言ってる風を装える」手法で、詐欺師の常套手段でしかない。