「歴史的事実は誰が書いても一緒」にはならない、たった一つの確かな理由~百田尚樹氏『日本国紀』
歴史的事実は誰が書いても一緒?
たとえばこのツイートはUS National Archives(米国国立公文書記録管理局)のTwitterアカウントによるものですが、ここに掲げられている同局所蔵文書(参照:https://catalog.archives.gov/id/6883722)について、その背景も含めて800字で解説してください、と複数の人に依頼したとして、果たして全員の解説文が細部に至るまで似通うことなどあり得るでしょうか? まず、書かれた文字を解読するリテラシーや幕末政治外交史の予備知識がない方はそもそも800字も書くことができないでしょう。また仮にこの文書が「徳川家茂が署名した安政七年の日米修好通商条約の批准書」であることが解ったとしても、いま「 」で括った所の文字数はたった26文字ですから、残りの774文字に何を書くのかは、やはり千差万別となり、説明の文言や話題の推移や順序、表現の仕方などまで一致することなど決してないはずです。 おそらく百田氏も含め上記のような意見を寄せられた方々は、中学高校でのテストの穴埋め問題のようなイメージで、歴史というのは単に出来事の起きた年や固有名詞だけで構成されていると認識しているのでしょう。しかし、実際の歴史叙述というのは、安易な断定を拒む歴史上のさまざまな事象を、なるべく広範囲の史料に目を配りながら、どうにかこうにかひとつの流れの中に落とし込むという、じつに労多くして功少ない仕事なのです。 「X年にYが起きた」という一文の裏側にも、実はそうした学問上の蓄積や議論があることに少しは思いを致していただきたいものです。Help us translate and transcribe original #Japanese notes received from the Japanese Shogunate, foreign ministers, and the first Japanese Embassy in the United States regarding the Treaty of Yedo. Details here: https://t.co/vnNzqsnQQn #citizenarchivist #volunpeers pic.twitter.com/TamRaT9abF
— US National Archives (@USNatArchives) 2018年10月21日
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