こうした中、企業体力のない下請けは、順に潰れていった。当時、筆者の工場の元請けや、古くから付き合いのあった工場の一部からも、月末になると不渡りの噂や「廃業のお知らせ」と書かれた手紙が届くようになる。その中には、潰れるにはもったいない独自の技術や設備を持った工場も多くあった。
来月はどこだろうか。あの会社は大丈夫だろうか。ウチはいつだろう。当時の下請け工場には、異様な雰囲気が漂っていた。
筆者の工場では、先述の通り、国内の各自動車メーカーの系列企業と取引していたのだが、メーカーの工場はもちろん、その系列企業にも、母体の社風がそのまま反映されており、仕事の厳しさや金額などにはそれぞれの特徴があった。
当時の日産工場や同社系列工場の印象は、真面目で工場マンとしてのプライドをしっかり持った社員が多かったのと、仕事の指示内容が大変細かかったこと、そして、とにかく「安かった」ことだ。
同じ仕事を、ゴーン氏が日産の社長に就任する前と後とで比べると、半値近くにまで落ちたものも多い。
一方、下請けに冷たい態度を取る元請け社員も多い中、日産工場で働く社員たちは、皆紳士的だった。
筆者の工場では、同時期に4人の日産工場の社員と付き合いがあったが、当時の業界の体質に対して、誰一人感情的な意見を言う人はいなかった。が、そんな彼らでも、雑談でゴーン氏の話になると苦笑いになり、「人の話を聞く人じゃないですからね」、「無茶なコストカットも多いですよ」と愚痴をこぼしていたのを覚えている。
工場閉鎖1か月前、“先輩工場”と同じように「廃業のお知らせ」を得意先へ一斉に流した後、真っ先に連絡をくれたのは、工場最盛期から長年世話になっていた日産のある社員だった。
「長い間、お疲れ様でした」
FAXで送られてきた最後の発注書。いつもの「よろしくお願いします」の代わりに、昔から変わらない太字でひと言、そう書かれていた。
こうして工場閉鎖から数か月後、当時から物書きとして活動していた筆者は、皮肉にも東京モーターショーでゴーン氏本人を取材する機会に遭遇する。
目の前で「コスト削減」「V字回復」「世界のNISSAN」を、人差し指突き上げ声高に唱える彼に、今と同じような、言葉にし難い深い虚無感に襲われたことを思い出す。
自動車という乗り物は一般的に、約4,000種類、3万点もの部品からできている。その1つひとつは、製造ラインという運命共同「帯」に乗った、エンジニアや現場職人らの技術と努力が造り上げた結晶だ。
ゴーン氏が50億円以上もの不正を働いている最中、廃業や倒産に追い込まれた多くの関連企業や、大勢の解雇者の存在がある。あの頃、「帯」から消え落ちていった日本の技術力に、ゴーンは今何を思うのか。いや、せめて何か思ってくれるだろうか。
トップにいた自らの不祥事が今、3,658社の将来に暗い影を落としていることを、少しでも考えてくれているのだろうか。
【橋本愛喜】
フリーライター。大学卒業間際に父親の経営する零細町工場へ入社。大型自動車免許を取得し、トラックで200社以上のモノづくりの現場へ足を運ぶ。日本語教育やセミナーを通じて得た60か国4,000人以上の外国人駐在員や留学生と交流をもつ。滞在していたニューヨークや韓国との文化的差異を元に執筆中。