――九夏社の出版物にテーマはあるのですか。
伊藤:文系と理系、一般書と専門書の間でこぼれ落ちていく良書を中心に出していければと考えています。私は以前は理系専門書の出版社にいたのですが、専門版元ではジャンルの縦割りが厳しくて、そこから逸脱するような企画はなかなか通りません。その結果、ジャンルが曖昧な本は敬遠されがちです。また、専門書ではないけれども大手出版社が一般書として出すにはちょっと小難しいという洋書が結構ある。こういう洋書はどんなに面白くても日本では出版されづらいわけです。もちろん主に商売や流通上のネックがあるからなのですが、小回りの利く会社であればむしろそのあたりを回避しやすいのではないかと。
たとえば弊社では、『
芸術・無意識・脳』(原題:Age of Insight)という本を出しました。これはノーベル賞を受賞した神経科学者であるエリック・カンデルの著作で、本国では注目を集めた話題作でした。しかし神経科学者が書いた芸術論は従来のジャンルからは逸脱しており、また掲載絵画の著作権も大きなハードルとなり、日本ではどこも翻訳に手を挙げませんでした。
『
Are Dolphins Really Smart?』もそうです。私は2013年にこの本の存在を知って、「どこかが翻訳して出版するだろう」と思っていましたが、結局どこも出さなかった。これらはうちがやらなかったら日本語では出ずじまいだったでしょう。
現在は「確率の哲学」に関する本の翻訳を進めています。確率とは何か、どう解釈すべきかという問いはずっとあって、現在でも熱心な議論が続いています。「サイコロ100回振って6分の1」みたいなものは実は確率の一側面でしかないわけです。しかし、その根元にある主観確率と客観確率の考え方の違いなどに関し、いま日本語で手に入る情報は非常に少ないのが実情です。
――不況に苦しむ日本の出版界をどう見ていますか。
伊藤:社会の底力の基盤となる知識や情報という意味では、本当に深刻なところまで来ていると感じています。私の目の届く範囲での発言になりますが、日本の出版事情から翻訳されない専門書や良書が増えているのではないでしょうか(特に理系)。
最近は本の市場規模自体がシュリンクしてきていますから、一昔前だったら「商売的にも何とかなるだろう。出そう!」と判断されたであろう企画の見送りも当然増えます。あるいは価格を上げざるを得ない。特に専門性の高い本や先端トピックの本にこの傾向が顕著です。かといって、現在の日本語ネットが本の役割を代替できるレベルにあるとは到底思えません。
総じて、英語と日本語で手に入る情報の格差がものすごい勢いで開いていると感じています。たとえば日本人がノーベル賞を受賞すると「日本では母国語で先端科学を学ぶことができる。これこそ日本の強みだ」などと言われたりしますが、それはもう過去の話になりつつあると言っていいのではないでしょうか。
弊社の活動が少しでもその差を埋める役に立てばと思ってやっていますが、なかなか大変です。そんな他社がやらないような本を出して商売的に大丈夫なのかと言われれば、この社会の物好きの多さを信じているとしか言いようがありません(笑)。
――中小出版社として取次やAmazonの問題はどう思いますか。
伊藤:いや、それはちょっと差し障りがあるので、また今度匿名座談会でお願いします(笑)。
(聞き手・構成 杉原悠人)
【伊藤武芳(いとう・たけよし)】
福岡県生まれ。株式会社「九夏社」代表取締役兼編集者。一般書版元、医学・生物学系専門出版社を経て独立。九夏社を立ち上げ、孤軍奮闘中。
提供元/月刊日本編集部
げっかんにっぽん●「日本の自立と再生を目指す、闘う言論誌」を標榜する保守系オピニオン誌。「左右」という偏狭な枠組みに囚われない硬派な論調とスタンスで知られる。