「アベ政治を許さない」に抱く違和感。この国に「正常な民主主義」を取り戻すのに必要なこと

写真/AA/時事通信フォト

 金子兜太さんが書かれた「アベ政治を許さない」という文字は、様々なところで用いられ、未だに政治的なプロテストの場ではよく使われている。  その成立の経緯については充分に理解しているし、敬意を払いたい。  しかし、私は、「アベ政治を許さない」という言葉、あるいはそれを用いた政治的なパフォーマンスには、ずっと違和感を覚えている。  安保法制強行採決のあとから、度々駅に「スタンディング」という形で無言でボードを持っている人がいたが、率直にいえば、黙ってそのボードを持っている人を見ると、怖い、とすら思う。  先日、私のつぶやいた内容を巡って様々なご意見をいただき、改めてなぜ「アベ政治を許さない」というボード、あるいはメッセージに対して違和感を感じるのかを考えた。

そこにあるのはむき出しの怒りだけ

 もちろん、私の過去記事を見ていただいている人ならおわかりの通り、私は安倍政権の国会運営や憲法を軽視する姿勢に大して大きな疑問を抱いている。  しかし、そのような前提をおいてもなお、この「アベ政治を許さない」というボードを見た時に感じる感情は、決して快いものではない。  問題は、「アベ政治を許さない」というボードを見るだけでは、「なぜ許さないのか」という理由がさっぱり伝わってこないことにある。  例えば、「アフリカの子供に学校を」というスローガンは、「アフリカの子供たちの識字率は○%で、それによって失業率は○%となっています」というような説明があって初めて、「なるほど、それは確かに学校が必要だな」と納得することができる。  しかし、単に「私は怒っている」と伝えられるだけでは、そこにはもやもやした違和感が残るだけだ。  私は国会をよく見るので、彼らが何に怒っているのかは分かる。  しかし、ほとんどの人は理由もなく怒っている、もっというとイチャモンをつけているように見えるだろう。  つまり、「アベ政治を許さない」というのは、ものすごくハイコンテキストなコミュニケーションなのだ。  つまるところそれは、同じ文脈を共有しているものにしか通じないコミュニケーションであり、ほとんどある種の符号や隠語としてしか機能していない。  もちろん、おかしいこと、間違ったことは何年経とうと間違っているし、安保法制を巡る過程は極めて問題の多いものだった。  しかし、人間の記憶は薄れてしまうものだ。理由を説明しなければ「ただよくわからない理由で怒っている人」という扱い方をされてしまうだろう。
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必要なのは「怒り」の要因を可視化すること
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