「若い女」でなくなることで、ようやく解放される「呪縛」<北条かや>

「若さによって覆い隠されてしまうものも多い」。北条かや氏が自らの経験をもとに説く

北条かやの「炎上したくないのは、やまやまですが」【その33】

 先日Twitterのタイムラインをぼーっと眺めていたら、ある記事がバズっていた。「ロリコンを内在化させてしまった女たちへ」。書いたのは24歳で女優志望のフリーランス、はましゃかさんだ。 「物心ついてはじめて母親に年齢を聞いたとき、冗談めかして『18歳』と言われたことを今もはっきりと覚えている。」  から始まる文章は流れるような筆致で、24歳の女性がこれまでの体験をもとに、若さという価値を底上げする日本社会と、そんな社会に惑わされている自分自身に怒りを突きつける。  彼女は言う。「より幼いものを可愛いと思え。より不完全なものを愛せ。劣っている存在こそが愛されるものだ」という呪いが、この社会に蔓延していると。  この「ロリコン文化」とでもいうべき呪いは、若者の内面にも深く根を下ろしている。18歳の「JK」がハタチの女子大生をオバサンだと笑い、目をくりっと大きく見せて童顔にするメイクや加工アプリが流行する。  より若いこと、幼いことが性的だと思いこむ「呪い」を、彼女は「自分自身にもかけてきた」と反省していた。本当は「何かを始めるのに、遅すぎるなんてことはない」のに。若さを失っても、希望まで失う必要はないはずなのに。  Twitterではすでに多くのインフルエンサーが絶賛し、男女を問わず「考えさせられた」「勇気づけられた」との意見が圧倒的だ。  自分の中にある雲のようなモヤモヤを掴もうとする、そのもがく様を分かりやすい文章に仕上げる彼女の才能はとても素晴らしいと思う。私にはない。と同時に隔靴掻痒の感じもした。これは身に覚えがある。 「私も似たようなことをやった」  はましゃかさんほどの才能はないけれども、私も若いときに彼女と似たようなことをやった(念の為に言っておくがこれは、彼女に対する批判ではない。むしろ共感と応援したい気持ちで書いている)。  あれは23歳でキャバ嬢になり、年齢差別をイヤというほど目の当たりにした少し後のことだ。 「キャバ嬢なんて若いだけで、足は臭いし更衣室でマックのポテトを食べ散らかしているだけで、大した価値のない女の集合ですよ。そんな『若いだけの女』にやたらと価値を上乗せして持ち上げて、その後暴落させて『ババアだ』と笑うのは止めてくれ!」  というようなブログを書いた。記事はかなりのPVを集め、賛否両論が寄せられた。今でいうところの「バズり」を経験したのである。そこまで大層なことを言ったつもりはなかったのに、あまりにも多くの反響が寄せられたことに驚いた。 「キャバ嬢なんて若いだけで何の価値もないのに、やたらと持ち上げるのはやめろ」と、キツい書き方をしたのが露悪的に見えたのか。それとも他の要因があったのかは分からないが、当時の私は「若い女の自己否定的な叫びはバズる」ということをぼんやりと学習した。

「若さゆえ」の自己批判というサバイバル戦略

 若い女が自身の価値を強く否定してみせるポーズは、人々の何かを刺激するらしい。でも、なぜ刺激するのかは分からない。あの頃の私は、あまりにも「若い女」であり過ぎた。  あの頃は若さという価値が自分にまとわりついていることに、いつもイライラしていた。その特権を利用していないつもりでも、いつだって、何を書いたって「若い女」という色眼鏡でしか見られない。  若さは「私」の本質を見えなくする。何より恐ろしいのは、誰かがこの禍々しい靄を取っ払って「私」を見たとき、どこにも「本質」など存在しないことだ。自分にはそれが分かっていた。  その不安や怒りを社会に求め、ブログで吐き出したら、うんと年上のおじさんたちは「荒削りだが素晴らしい」「面白い」と称賛してくれた。  一方、同世代や少し年上の男女からは「実力がない」「あいつは女を利用しており、フェミニズムに逆行する」などと反発を受けた。私は「若いだけ」で、そこに本質など存在しないと見抜いていた人も多かったのだろう。  だが、「若い女」の頃に書いた記事やツイートがバズったことで私はライターになれたのだから、次のことは言える。  24歳とか25歳とか、まだまだ「若い」といわれる年齢のうちに、自分がその価値の渦中にあることに批判的であること。これは少なくとも、ライター志望の若者のサバイバル戦略としては優れていたのだ。
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若い女であることのデメリット
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